2013年05月25日

人類史の時代区分

日本とアジア 情報化社会編(2)

人類史の3つの革命――。
そこから生まれた、4つの時代。
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第1、狩猟・採集の時代――約700万年の人類史のうちの約699万年。
第2、農業の時代――約1万年前、氷河期が終わったころに始まります。
この2つの時代、最大の課題は、食料の確保。
いわば、胃袋の時代です。
第3、産業の時代――化石燃料という大規模エネルギーの利用と生産力の拡大。
いわば、筋肉の時代。
第4、情報化時代――コンピュータ、インターネット…新しい情報技術が切り開いた、新しい時代。
頭脳の時代ですね??
人類の長い歩みの果てに到達した、「いま」です。
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2013年05月24日

情報化社会を迎えて

日本とアジア 情報化社会編(1)

このブログが土台にしているのは、関西のある大学での講義です。
だから、ちょっと「硬め」なのですが、我慢して下さい。
講義の主題は、アジアの国々についての紹介。
それを、日本との比較の中で進めています。
そして、わたしがこころの奥底で意識しているテーマ――
<われわれはいま、どのような時代に生きているのか?>
これまでの地理編と歴史編で見てきたこと。
●その地理的、歴史的条件から、アジア(世界)の多くの国々と日本とは、根本的に異なる。
●産業の時代は「団体戦」の時代であり、日本は極めて有利だった。それに対して、アジアの国々は戦う体制すら築けなかった。
しかし、それは過去――いまは、御破算です。
時代は変わりました。
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これから、考えたいのは、次の2点です。
1)情報化社会とは、とのような社会か?
2)情報化社会に向けて、アジアの国々および日本の課題は何か?
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2013年05月23日

情報化社会へ向けて

日本とアジア 歴史編(26)

歴史編は今日で終わります。
次は、情報化社会編」です。
振り返ると、産業の時代は、集団戦の時代。
「同じような欲望、同じような能力、同じような考え、そして、同一の集団に属するという仲間意識」――そんな条件を備えた集団が圧倒的に有利だった時代。
一億総中流がいわれ、「(平等という点で)まるで社会主義だ」とまでいわれた日本。そして、しばしば「金太郎飴」と自嘲した日本人。
しかし、その金太郎飴こそが、あの時代の日本の繁栄の秘密だったのではないか。
倒れても、倒れても、次の兵士が出てきて戦いを続ける。
そんなファランクス(密集歩兵集団)。
しかし、情報化社会の到来。
それはまた、地球化の時代。
「地球」の重要さがグッと大きくなる。
その分、国家の地位が相対的に低下する
だれでも、よその国、よその集団の個人とつながってしまう。
そして、未知の人々や集団と競い、助け合う。
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そんな、地球規模の「競生」の時代。
それはまた、地球規模の個人戦の時代。
そんな新しい時代に、どう適応するか?
引き続き、
第3部、情報化時代を迎えて
で考えたい主題です。

そんな、地球規模の「競生」の時代。
それはまた、地球規模の個人戦の時代。
そんな新しい時代に、どう適応するか?
引き続き、
第3部、情報化時代を迎えて
で考えたい主題です。
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2013年05月22日

「産業の時代」とは?

日本とアジア 歴史編(25)

「産業の時代」の始まりは、18世紀後半。
きっかけは、イギリスで進んだ技術革新。
核心は、地下からの化石燃料の利用。
それによって、人類の利用できるエネルギー量が桁違いに増大したこと。
しかし、その成果が大量生産、大量消費というかたちで顕在化するのは、(実は)20世紀にはいってからです。
具体的には、T型フォードの発売が1908年。
そして、その終末は、「日本の躍進」がいわれた、20世紀後半。
すると、「産業の時代」とは、正味、20世紀の100年にも満たない期間ということになります。
その前半、日本が、日露戦争から第1次世界大戦、対中戦争、太平洋戦争と戦いを続けていた時期、アジアのほとんどがヨーロッパ列強の植民地か、それに近い状態でした。
そして、その後半。
それは、先進国と発展途上国に分かれた世界でした。
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民主主義を実現し、国民国家を形成した先進国。
日本でいえば、敗戦のどん底から「1億総中流」とまでいわれた経済発展を遂げた時代。
ほとんど、世界の先頭に立った、といえそうです。
同じ時期、植民地状態のどん底から、新国家建設に動きだした、アジア諸国。
しかし、産業社会に「離陸」することは、ありませんでした。
なぜ?
「バラバラ」だったから。
以前に変わらぬ独裁が継続し、「国民主権」が実現できなかったことから。
そう考えることはできないでしょうか?
「産業の時代」はまた、「団体戦」の時代でした。
「同じような能力を持ち、同じように考え、同じような欲望を持つ」多数の構成員を必要とした。
おそらくは、それこそが20世紀後半の日本や日本企業の躍進の秘密です。
そして、そのような「国民」を生み出せなかったことが、発展途上国の停滞の一因ではないでしょうか?
posted by Yoshimura_F at 08:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 卒業論文集

2013年05月21日

汚職とアジア諸国

日本とアジア 歴史編(24)

「総汚職体制」――そんなタイトルのエッセイを書いたことがあります。
いまはない、『朝日ジャーナル』(1989、7月7日号)です。
そのころわたしは、朝日新聞社のシンガポール支局長をしていました。
ミャンマーに出張したときに書いたものです。
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当時のミャンマー。
極端なほど貧しい国でした。
石鹸や歯磨き粉も、売っていません。
社会を4つの集団に分けて考える――現地のある知識人に教えられたクニの見方です。
まず、横線を入れます。
下段で、圧倒的多数を占めるのは、地方の農民です。
「石鹸など無関係、コメさえできればよい」人たち。
もうひとつは、山間部の少数民族です。
そのころは、クニと敵対・戦闘状態でした。
上段は、都市民です。
大きい方は、その日その日を生きるのが精一杯の庶民。
最後の小さなマスは、官僚、軍人、知識人などです。
「支配のマス」ともいえます。
このマスにはいりさえすれば、たとえごくわずかだとしても、上から順送りに権力の余禄に預かることができる――それが、「総汚職体制」です。
国は貧しくとも、権力はきわめて強固で安定している――そんな風に見えました。
エッセイのなかに、こんな文章があります。
「一党独裁とは、実は、権力と役得の連鎖の仕組みなのである。それを手放したくない人々が、ピストルを腰にしている構造がある」
そして、
「こうした一党独裁の病理が、マルクスの遺産なのか、それとも大陸アジアの長い歴史の延長からくるものなのか、判断できないでいる」
posted by Yoshimura_F at 05:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 卒業論文集

2013年05月20日

「分断のある社会」

日本とアジア 歴史編(23)
アジア諸国の場合
わたしが小学生だった昭和20年代、アジア・アフリカ諸国が相次いで独立しました。
新興国のナショナリズム――それは、小学生だったわたしですら感じた、時代の希望でした。
しかし、希望はまもなく裏切られます。
どのアジアの国も、どのアフリカの国も、発展できませんでした。
産業社会に移行できなかったのです。
殖民地からは脱却しました。
古くからの専制君主も打倒しました。
しかし、産業社会に変わることはありませんでした。
民主化も遠い夢でした。
なぜ?
いま、思います。
「分断のある社会」だったからだ、と。
だから、「国民」が形成できなかったからだ、と。
あのころ、「希望の標語」だったナショナリズム。
しかし、それは、幻想でした。
「分断のある社会」――それは、ヒツジたちがそれぞれに勝手に動き回る社会。
羊飼いが、必要になります。
軍事政権、独裁政党――新しい独裁の道。
新しい羊飼いたち!
社会の単層化が求められる「産業の時代」に、「農業の時代」そのままのヒツジと羊飼いからなる、二層社会が維持されたこと。
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第2次大戦後の多くのアジア・アフリカの国々の現実です。
それがおそらく、アジア・アフリカが、産業の時代に途上国に留まった理由です。
posted by Yoshimura_F at 06:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 卒業論文集

2013年05月19日

支配の三角形

日本とアジア 歴史編(22)

前項に書いた産業社会の現実を図にしてみました。
繰り返すと、巨大装置となった「政・官・業」の支配の三角形。
その中核に、「公僕」となったはずの「官」がいます。
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「官」が「臣」として「民」を指揮・監督した戦前の(天皇制)国民国家そのまま?
秀才たちが集まった陸軍大学校、そして、陸軍――かつて、この国を滅ぼした責任者たち。
秀才たちが集まる東大法学部、そして、中央官庁――この国のエリート養成システムが、根本的に間違っているように思えます。
そのうえ、記者クラブ・マスコミはお役所の応援団。
合併でつぶれた金融機関の元社員から、こんな恨み節を聞きました。
「金融機関の合併は、全部、お役所(財務省)の指導です。大が中を飲む。中は小を狙う。(それぞれの金融機関が、仮に)勝手をすると、官庁から潰しがはいる」
安倍(直近)シンパを自任する、近ごろ売り出し中の政治記者の話。
「第1次安倍内閣は、公務員改革に手をつけたから(官僚たちに)つぶされた。第2次安倍内閣は、もう『代わりがない』。官僚たちがそう思っているから、必死にささえる」
(だから、つぶれない)という安倍シンパらしい話です。
「政権すら『官』次第」という、政治記者のリアルな観察。
羊飼いと番犬の逆転を許容しているような、妙な感じで聞きました。
posted by Yoshimura_F at 06:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 卒業論文集

2013年05月18日

産業社会の建前と現実

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日本とアジア 歴史編(21)

主権者である国民が、定期的に代表(代理人)を選び、「官」を指揮・監督する――民主主義の建前です。
日本でいま、うまく機能しているでしょうか?
いえ、とんでもない――わたしには、そう見えます。
産業の時代とは、具体的には「巨大装置」の時代。
いちはやく確立された、他の追随を許さない巨大装置――それこそが、時代の実力者です。
それが、いわゆる大企業、都市銀行、大手マスコミ、電力会社――。
わたしの属したマスコミ企業についていえば、社屋、社員集団、輪転機、販売網……などを備えた、巨大<装置>でした。
そして、(業界として)情報発信を独占し、そのことによって社会的地位を得ていた――内部にいた者としての実感です。
産業の時代、実質的に社会の支配権を握ったのは、そんな<装置>集団ではないか?
そして、つい見落としそうになる、桁違いに巨大な<装置>があります。
全国に網の目のように広がる組織を操り、税という底なしの財布を握る高級官僚の一群。
一流企業に、業界団体にと「天下る」現実が、それらを圧倒するあの人たちの実力を物語っています。
彼らが主導する巨大装置集団の組み合わせ――それこそが、(わたしの考えですが)産業の時代が行き着いた「既得権益層」。
少なくとも、お役所の仕事(資金=税)が増え続けること。
それがおそらく、いまの日本の行き詰まりの原点です。
「お役所しっかり!」しかいえないとすると、マスコミも同罪です。
posted by Yoshimura_F at 07:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 卒業論文集

2013年05月17日

民主主義という仕組み

日本とアジア 歴史編(20)

産業の時代は、豊かさの時代です。
それを支えたのは、(モノの)大量生産・大量消費。
その大量生産、大量消費に欠かせないのが、「同じような能力、同じような欲望、同じような関心、そして、同じグループに属しているという意識を持つ」集団。
つまり、均質な国民。
そして、生まれた「みんながヒツジ、だれでも羊飼い(になれる)」単層社会。
それがつまり、民主主義社会ということです。
農業の時代は、そうではありませんでした。
(神に選ばれた)帝王が国家のオーナー(主権者)です。
その帝王が、「官」を指揮・監督して、国家を運営する。
それは、ヒツジと羊飼いに分かれた、複層社会です。
産業の時代、帝王を放逐して、新しく主権者となったヒツジたち……。
新しい主権者。
主権をどう行使するか?
そこで生まれた、選挙という仕組み。
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主権者である国民が、定期的に、その代表(代理人)を選ぶ。
選ばれた代理人が、かつての帝王に代わって、「官」を指揮・監督する。
それがつまり、民主主義ということ。
「均質な国民」の存在が、このシステムが稼働するカギです。
posted by Yoshimura_F at 07:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 卒業論文集

2013年05月16日

戦前と戦後

日本とアジア 歴史編(19)

明治日本も国民国家です。
戦後の日本も、国民国家です。
でも、それぞれに違います。
何が、違うか?
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みんながヒツジ、そのあいだに仕切りを作らない――それが、産業の時代です。
ところが……仕切りを作ったのが、明治・天皇制です。
<天皇―臣―民>という秩序。
官僚が、「臣」として民の上に位置づけられています。
戦後の日本。
主権者は、国民です。
官僚の位置づけが変わります。
戦前、官僚は天皇に仕える「臣」。「民」の上に君臨していました。
戦後、官僚は、少なくとも建前は、国民に仕える「公僕」です。
このことについて、わざわざ「少なくとも建前は」などといわなくてもすむようになること――それが戦後の民主化の指標だと、わたしは考えています。
これにはもちろん、国民の代理である政治家たちの力量が問われます。
同じぐらい、マスコミの力量も問われます。
posted by Yoshimura_F at 07:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 卒業論文集