2012年08月17日

おカネ信号”の提唱――経済を記号論から見る――(51)

第4節 根源的問題B
(14)「線状的で、恣意的」な性格
繰り返すが、ことばもおカネも、シンボル=代理物である。
 それはつまり、ことばもおカネも、本物ではないということだ。
本物は、ことばの場合、それが表現しているものごとや概念だ。同じ様に、おカネの場合の本物は、それが表現するモノやサービスであり、その差し当たりの「相対価値」がおカネ信号によって表現されているだけだ。
シンボルとは、そのように働くものなのだ。
情報理論では、シンボル化とは、特定のものや事象のもつ意味を、別のものや事象で表すことだ。「別のものや事象が音声」である場合、その音声、つまり、ことばがシンボルとなる。「おカネという乗り物」である場合、そこに乗っている数と単位によって示されたおカネ信号がシンボルとなる。
ところで、近代言語学は、ことばというシンボル(記号)について重大な特徴を指摘している。
「そして、記号(シーニエ)には線状的性格、恣意的性格がある、という。恣意性(arbitrary)には2つの意味がある。第一に、音の組み合わせとそのあらわす意味(概念)とのあいだにいかなる必然的なつながりもないという<無縁性>がある。(略)重要な点は第二に、言語記号は無形の観念の塊を<因習的・恣意的>に分割したものであり、これを音と結びつく範囲で区切って概念を作ってゆくことである。逆に音の無形の塊も、概念と結びつく範囲でいくつかの音声に区切られていく。こうして恣意的に区切られた両者の結びつきが混沌である世界に形を与え、ラングとなるのである」P。
線状的性格とは、時間的にリニア(2次関数的)な並びということだ。同時に2つの音を発することはできない。同時に2つの文字を書くことも読むことも、普通、できない。
恣意性については、@音の組み合わせとその表す意味<無縁性> およびA「無形の観念の塊」の区切り方と「音の無形の塊」の区切り方――の2つの関係について指摘される。
簡単にいえば、第一の恣意性つまり<無縁性>は、どんな音の組合せで、どんな意味をあらわすか――ということについて、必然的な関係は何もない、ということだ。「犬」という4本足の動物を表わすのに「イ」と「ヌ」という2つの音の組み合わせでなければならない理由はまったくない。
第二の恣意性についていえば、たとえば、黄色と緑のあいだには現実には無数の色がある。それを、黄色、黄緑、緑の3色に「分けてしまう」。しかし、その分け方は<因習的・恣意的>なことであり、必然的な理由はなにもない、実をいえば、どのように分けても構わないということを表わしている。
そしてまた、「キ・イ・ロ」「キ・ミ・ド・リ」「ミ・ド・リ」という音の組合せも、そうでなければならない理由はまったくない、ということを意味している。
おカネ信号の場合はどうか。
ことばの場合にあった「線状的で恣意的な」性格は指摘できるだろうか?

注PG・ムーナン、福井芳男・伊藤晃・丸山圭三郎訳『ソシュール』pH
posted by Yoshimura_F at 06:14| Comment(0) | TrackBack(1) | 卒業論文集
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/57625719

この記事へのトラックバック

物事の意味を表す
Excerpt: そもそも質問した人は、こういうことが知りたくて質問したのでしょう。こうして答えて
Weblog: 哲学はなぜ間違うのか?
Tracked: 2012-08-17 20:30