2013年04月28日

狩猟・採集社会と農業社会

日本とアジア 歴史編(5)

約1万年前、最終氷河期が終わりかけたころ、ヒトは栽培あるいは飼育という食料の獲得手段を発明します。
タネをまいて収穫する。
収穫した一部をタネとして再生産に利用する。
動物に子どもを生ませ、育てる。
一部を残して、子どもを生ませ、増やす。
狩猟採取時代には、自然に「ある」ものをそのまま採集して食べる。
いわば、その場しのぎの暮らしです。
「みんなで狩りや採取をして、みんなで分ける」――それが基本です。
農耕や牧畜は、違います。
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周期的な生産のために、食糧を蓄える。
自分たちが食べるよりも、ほんの少し、余分に生産できる。
すると、その「余分」を預かることで生活する人々が出てきます。
いわば、倉庫番です。
倉庫番の登場――それが、階層分化です。
「一つの社会が食うものと食われるもの、もっと厳密にいえば余剰を生産するものとその余剰によって生活するものに分化した」(今西錦司「人類の進化史」)
今西さんは、そのことを「社会の多層化」と呼んでいます。
2つの階層は、今西錦司さんの用語では、ヒツジと羊飼いにたとえることができます。
ヒツジたちから(できれば自発的に)税を巻き上げる――その仕組みが、クニ(国家)です。
ヒツジたちとヒツジ飼いに分断された社会――農業時代のクニの基本構造です。
人類が農業という生計手段を発明した約1万年前から、産業革命のあった約200年前まで、世界中どこでも、それが、基本的な社会のかたちです。
生産できる余剰が限られていたからです。
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2013年04月27日

わたしが経験した狩猟採取民

日本とアジア 歴史編(4)

ほぼ700万年前、アフリカ地溝帯で、二本足で歩き出したサル。
犬歯の発達が不十分で、歯で戦うことを放棄したサル。
それが、いま考えられている「ヒト」の始まりです。
縦に伸びた首と背骨で、重い脳を支える。犬歯とそれを動かす筋肉の発達が不十分で、脳を縛り付ける力が弱い――脳を大きくして「賢くなる」――それが、ヒトという種に、たまたま、あたえられた進化の戦略。
約700万年の歴史の大半――実に、約699万年は“原始的な”狩猟採取民です。その間に、20種ほどのご先祖さまが現れ、滅びているようです。
前回触れたように、わたしは学生時代、探検部というサークルに属していました。
部員たちが共通に意識していたのが、「海外」。
いまから思うと不思議なほどですが、終戦から1964年4月までのほぼ十年余り、日本は、海外渡航という点では、鎖国状態でした。
貧しい日本。
外貨を無駄遣いしてはならない、というわけです。
そんな鎖国・日本に穴を開ける――梅棹先生が、わたしたちをけしかけました。
その手段の一つが、学術=少数民族の調査。
そんなわけで、わたしは学生時代、3つの少数民族のムラに入りました。
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カナダ・ハドソン湾東岸のエスキモー、マレー半島東岸のジャングルに暮らすネグリート、インド・デカン高原のアボジュマリア(山のマリア)族の3つのムラです。
エスキモーは伝統的な狩猟社会。ネグリートは、吹き矢を操る狩猟・採取社会。山のマリアは、初期の農耕社会でした。
3つのムラで、共通して思ったことのひとつ。
人間は、驚くほど保守的です。
すぐそばに、(もっと便利な?)現代生活をする人たちがいても、必ずしも、それを真似ようとはしません。
そうすると――。
古来、未開と文明が遭遇したとき、未開は文明をキャッチアップしようとしただろうか?
それができずに、排除され(追われ)、絶滅させられた民族は、数限りなくあるのではないか――とくに、熱帯ジャングルの片隅で細々と生きる、マレーシア・ネグリートの印象は鮮烈でした。
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2013年04月26日

人類史3つの革命

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日本とアジア 歴史編(3)

わたしたちはいま、どのような時代に生きているのか?
「工業(産業)の時代はいずれ終わる。来るべきは、情報化社会だ」
こんな考えを故・梅棹忠夫先生から聞いたのは、1960年代でした。
そのころわたしは、京都大学の学生でした。
たまたま探検部という学生サークルに属していました。
その顧問のひとりが、梅棹忠夫先生でした。
他は、芦田譲治、今西錦司、川喜田二郎、中尾佐助、中沢圭二、藤岡喜愛、藤田和夫、吉井良一の各教授です。
教師と学生が近かった、いまから思うと、ウソのような時代です。
それぞれの先生に世話になりました。なかでも――、
京都・北白川の梅棹先生の私宅に、学生や若手研究者、社会人が集まることがよくありました。
いつの間にか、「梅棹サロン」と呼ばれるようになり、毎週金曜夜、定期的に会合するようになりました。
夜7時ごろから翌朝、空が白む午前4~5時ごろまで続く談論ビール・パーティです。
ここに紹介した「3つの革命論」は、そんなパーティの席で、梅棹先生から直接お聞きした内容を、わたしなりにまとめてみたものです。
梅棹先生は、@内肺葉(消化器官)の時代 A中胚葉(筋肉と骨格)の時代 B外肺葉(神経系)の時代――と発生学を援用して説明なさいました。
わたしなりに考えるなら、3つの時代はそれぞれ、食物の時代、モノの時代、頭脳の時代――と位置づけられるように思います。
ひとこと付け加えておくと、この図式のうち「産業の時代」については、梅棹先生は懐疑的でした。
後のことですが、こんなことばを聞いた記憶があります。
「ひとつの時代として設定するには、短かすぎる。情報化時代の前触れのようなものと考えた方がいいかもしれない」
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2013年04月25日

宇宙の始まりから

日本とアジア 歴史編(2)
歴史を考える基本
自分の立ち位置を知る。
わたしがいま、ここに、こうしている。
それは、どういうことなのか?
人類の歴史のなかに自分をおいてみる。
いえ、もっと大きく宇宙史のなかではどうでしょう?
年表をつくってみました。
10年が1oです。
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あなたは、東京に住んでいます。
あなたがいま20歳なら、この年表で2mm生きてきたことになります。
キリスト生誕は、ほぼ20cmのむかし。
わたしたちが学校で習う「歴史」は、だいたい、この20cmのあいだの出来事です。
氷河期は、ほぼ1m前に終わります。
わたしたち現生人類の共通の祖先とされるイブ(集団)がアフリカ地溝帯に生まれるのは、多分17~8万年前、いまから17~18mのむかしです。
2本足で歩くサル――最初の人類は、ほぼ700mの過去に生まれました。
そんなサルが生まれるまで――小さな単細胞生物から始まる、長い生物の進化の歴史があります。
わたしの誕生のためには、地球や宇宙も必要です。
あなたが東京に住んでいるとして、生物の誕生は岐阜あたり、太陽系つまり地球ができるのは米原あたり、そして、宇宙の誕生は鹿児島あたりになります。
そんな膨大な距離(時間)を歩んできて、最後の数ミリのところで、泣いたり笑ったりしている――それが、わたしたちです。
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2013年04月24日

なぜ、歴史を学ぶか?

日本とアジア 歴史編(1)

歴史編にはいります。
でも、その前に、考えておきたいことがあります。
わたしたちはなぜ、歴史を学ぶのか?
むかしのことを知る? 
違います。
歴史を学ぶのは「いま」を知るためです。
その意味で、歴史はいつも「いま」のものです。
いま学ぶ平安時代は、(いまの)平安時代であって、(平安時代の)平安時代ではない、ということ。
もう一度、なぜ、歴史を学ぶか?
とても興味深いヒントを、滋賀県高島市で菓子店「さか栄」をいとなむ西沢恵利さんからいただきました。
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2004年度、わたしの勤めていた龍谷大学国際文化学部(滋賀県大津市)で「現代社会と経営」という科目を新設しました。
たまたま、キャリア開発主任という役割をあたえられていたせいです。
地元・滋賀の経営者の方々に経営や時代について話しいただく――そんな講義です。
示唆に満ちた講師の方々のお話――それは、わたしにも深い影響を与えたました。(講義はそっくり本になっています(『働くということ』文理閣)
その講師のひとりが、西沢さんでした。
講義の中で、西沢さんはこんなことをおっしゃいました。
「今日の売り上げは、今日の努力の結果ではない。3ヶ月前、1年前の努力の成果です」
「今日の接客、今日の笑顔、今日のサービスが、3ヵ月後、1年後の売り上げになるのです」
わたしたちのいまは、過去の積み上げの結果です。
その過去の積み上げを学ぶ。
それが歴史を学ぶ、ということ。
でも、それだけではありません。
わたしたちのいまが、未来をつくる。
その意味で、わたしたちはだれもが、未来の歴史にかかわっています。
どれほどわずかでも、です。
過去といまと、未来をつなぐ――。
その微妙な接点に、「歴史」はあります。

2004年度、わたしの勤めていた龍谷大学国際文化学部(滋賀県大津市)で「現代社会と経営」という科目を新設しました。
たまたま、キャリア開発主任という役割をあたえられていたせいです。
地元・滋賀の経営者の方々に経営や時代について話しいただく――そんな講義です。
示唆に満ちた講師の方々のお話――それは、わたしにも深い影響を与えたました。(講義はそっくり本になっています(『働くということ』文理閣)
その講師のひとりが、西沢さんでした。
講義の中で、西沢さんはこんなことをおっしゃいました。
「今日の売り上げは、今日の努力の結果ではない。3ヶ月前、1年前の努力の成果です」
「今日の接客、今日の笑顔、今日のサービスが、3ヵ月後、1年後の売り上げになるのです」
わたしたちのいまは、過去の積み上げの結果です。
その過去の積み上げを学ぶ。
それが歴史を学ぶ、ということ。
でも、それだけではありません。
わたしたちのいまが、未来をつくる。
その意味で、わたしたちはだれもが、未来の歴史にかかわっています。
どれほどわずかでも、です。
過去といまと、未来をつなぐ――。
その微妙な接点に、「歴史」はあります。
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2013年04月23日

オープンな国境 タイの場合

試論「日本とアジア」(28)
地理28.JPG
イサンと呼ばれる北東部は貧困地帯です。
ことばもラオスのラオ語に近く、首都バンコクの人々からは田舎者と見られています。
そして、その分、住民はラオスやカンボジアに親近感を持っています。
カンボジア内戦のころ、多くの難民キャンプが設けられたのも、イサンでした。
北部から東部にかけて、ミャンマー国境の一帯は、かつて国境をはさんで「黄金の三角地帯」と呼ばれ、けしの産地でした。
中国から逃れてきた国民党軍残党の巣窟だったこともあります。
この一帯に住むカレン族は、ミャンマーからの難民といわれています。
しかし、もともと、民族分布にあわせて国境線が引かれたわけではありません。カレン族の居住地を縦断するかたちで国境ができた?
多分、そうです。
南部のマレーシア国境に近いあたりでは、マレーシア同様にイスラム教徒が多数派です。しかし、タイは憲法で「仏教国」であることが明記されています。
この数年、タイからの分離を求める、武力による独立運動が続いています。
国境を越える関係――同じような図は、大陸のすべての国について描くことができます。
もちろん、日本の場合も描けます。
たとえば、大阪の鶴橋と韓国の済州島。神戸とインドや中国南部とーーといった具合です。
広島や和歌山は、ハワイやブラジルと、群馬や静岡は、中南米諸国と結べそう。
でも――どの線も、極端に細い。
念のため――考えてみたのですが、沖縄と中国を結ぶのは、無理がありそうです。
アジア――国のなかに、いくつもの民族!――多数派が支配すれば、少数派は阻害され、少数派の支配は、しばしば強権と重なる。
アジア――国境は、接線――人々を、へだて、つなぐ。
そういう状況を、とりあえずは理解しておきたい――。
ということで、地理編は今回で終わります。
次回から、歴史編に移ります。
日本とアジア諸国(世界の国々)は、何が違うか?
いいかえれば、世界の中で日本が、国としてどれほどに「特異」か?
その点を、歴史から見てゆきます。
posted by Yoshimura_F at 06:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 卒業論文集

2013年04月22日

国境を越えたつながり、中国の場合

試論「日本とアジア」(27)
55の少数民族と、人口の9割余を占める漢民族――そんな構成で成り立つ中国。
その少数民族のほとんどは、国境周辺を根拠とし、国境の外の人々とつながっています。
地理27.JPG
西部の新疆ウイグル自治区――もともとの住民であるウイグル族やキルギス族、タジク族などは、大半がイスラム教徒です。
隣国のカザフスタンやキルギス、タジキスタン、さらに遠く離れたアフガニスタンや中東諸国のイスラム教徒たちこそが、文化を同じくする仲間です。
いいかえれば、首都・北京は異文化の世界。
『北京化』は“侵略”、抵抗は “分離主義”――この不毛。
チベット自治区や青海省などのチベット族の場合も、同様です。
国から追い出されたダライ・ラマ14世は、一面、抵抗のシンボルです。
内モンゴル自治区のモンゴル人も、文化的な故国はモンゴルです。
鴨緑江を挟んで北朝鮮と向き合う吉林省には、少なからぬ朝鮮族がいます。
北朝鮮からの脱北者にとっては、頼りになる人々です。そして、
南方では、チワン族やタイ族は、東南アジアに同系の(少数)民族がいます。
マレーシアやタイ、シンガポールなど東南アジア諸国の華人は、祖先をたどると、ほとんどが福建省や広東州、海南島などです。
そのつながりは、東南アジアの国々にとっても、民族間のあつれきの原因、そして、同時に活力を生み出す、貴重な資産のひとつです。
posted by Yoshimura_F at 06:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 卒業論文集

2013年04月21日

国境を越えたつながり、インドの場合

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試論「日本とアジア」(26)

国境を越えるつながりを、インドについてみてみました。
パンジャブ州と呼ばれる州が、インドにもパキスタンにもあります。
パキスタン側はイスラム教徒、インド側はシーク教徒という違いがあります。
しかし、どちらも、パンジャブ人の世界。
つまり、パンジャブ語の世界です。
インドのパンジャブ商人は、アフガニスタンにも進出しています。
北部のヒマラヤ山脈に近い一帯は、ネパールからさらにヒマラヤ山脈を越えて中国のチベット一帯まで続く、チベット人の世界の一部です。
ヒマチャル・プラデシュ州のダラムサラには、チベット亡命政府もあります。
わたしはここで、ダライ。ラマ14世にお会いしました。
バングラデシュと国境を接する、ベンガル州はベンガル人の世界です。
ヒンディ語やタミル語、グジャラート語などを話す、インド国内のインド人より、ことばや血縁で結ばれた国境の向こうの「外国人」を、身近に感じています。
南西部タミル・ナド州のタミル人は、イギリス植民地時代、プランテーション労働者としてマレーシアやスリランカに送られました。
そのつながりは、ベンガル湾を越えて、いまも続いています。
東南部のケララ州やグジャラート州からは、アフリカ移民が多く出ています。
そして、首都ニューデリーをはじめとしたインド各地には、キングズ・イングリッシュを誇り、かつての宗主国イギリスとのつながりを至上とするスノビッシュな人々もいます。
アメリカに留学し、IT業界や金融業界で活躍するインド人も少なくありません。
多数の在外インド人が、母国と諸外国とを結ぶ――英語国インドのもうひとつの姿です。
――わたし自身気づいていなかった、国境についての見方。
それをわたしは、インド滞在36年に及ぶ中村行明上人に教えていただきました。昨年のことです。
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2013年04月20日

オープンな国境、もう一つの意味

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試論「日本とアジア」(25)

前に、大陸の国々の陸続きの国境と、海の中にある日本の国境との違いを列記してみました。
実は、付け加えなければならないことがあります。
「国境を越えた人々のつながり」です。
アジア諸国の3つの分断のひとつとして「国境による民族の分断」をあげました。
それは、逆からいえば、「国境を越えた、民族のつながり」です。
国境が、境界でありながら、つながりの場でもあること。
国境を越える、人々のつながり(コミュニティ)が存在するということ。
国家にとっては、それはプラスにも、マイナスにも働きます。
プラスとしては、国家の対外的なつながりを強めます。
民族や宗教のつながりを通して、隣国やあるいは関係国との友好や経済関係を強化することができます。
マイナスの面としては、国家の統合の妨げになる可能性があります。
「ひとつの国」であることがとても難しい――日本では考えにくい現実です。
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2013年04月19日

密輸の現場

試論「日本とアジア」(24)
ハジャイ
貿易とは、端的にいえば、価格の低いところで買って、価格の高いところで売ること。
国境は、その現場です。
ある商品が一方の国では安く、隣の国で高い。別の商品は、ちょうどその反対。すると、
その「安い」商品を求めて、隣国から多数の買い物客がやってきます。
というわけで、国境の町には繁栄する条件があります。
「東南アジアの活気を見たかったら、ハジャイに行ってごらん」
ある知人のアドバイスでした。
まさに、活気にあふれていました。
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1992年春、わたしは「東南アジア・国境の旅」に1ヶ月をあたえられました。
ハジャイは、買い物の町。
そのころで、人口30万ほどの町に、広大なマーケットが6つ。デパートが新旧合わせて5つ。
夜の歓楽街もあります。
女の子の写真を、ずらりと、表に張り出していました。
客は大半が、マレーシアとシンガポールからの観光(買物)客。
タイ製品が、マレーシアより3、4割安く手にはいるからです。
ハジャイからマレーシア側に往復してみました。
タイ側の検問所で、単車に乗り換えます。
両側を金網で囲った道路を1kmほど走ると、マレーシア側の検問所。
タイ側への帰途、数台の大型トラックが停まっているのに、遭遇しました。
数十人の男たちが荷物を下ろし、金網の間に消えてゆきます。
密輸の現場です。
テレビ番組用にビデオを回していたら、いつの間にか、10台近い単車に囲まれていました。
密輸の場面を巻き戻し、その上に、別のシーンを撮影することで勘弁してもらいました。
男たちはいいました。
「これを日本で見るのは構わない。しかし、タイヤマレーシア当局に見られたら困る」
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2013年04月18日

コーズウェイ

試論「日本とアジア」(23)

シンガポールとマレーシアの国境は、コーズウェイと呼ばれます。
「橋」といわれますが、現場の状況はどうみても埋め立ててつくった「土手道」です。
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わたしは、87年から89年にかけてほぼ2年間、シンガポール特派員として過ごしました。
だから、コーズウェイには少なからずお世話になっています。
よく知られるように、シンガポールは「罰金王国」です。
道路でガムを噛んだら罰金、長髪は罰金、ゴミを捨てたら罰金……窮屈この上ありません。
だから、シンガポール人は国境を越えたとたん、日ごろの鬱屈を爆発させます。
ゴミを道路に撒き、タンを吐き、車のスピードを上げ……というわけです。
冗談は別にして、コーズウェイはアジアでもっとも交通量の多い国境のひとつです。
朝夕は、マレーシアからシンガポールに通勤する人々の車で渋滞します。
マレーシアの国境近くに住む日本人中学生は、毎日、パスポートを持って、シンガポールにある日本人学校に通学していました。92年です。
いまは、ジョホールバルに日本人学校ができています。
posted by Yoshimura_F at 07:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 卒業論文集

2013年04月17日

ベトナム・カンボジア国境

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試論「日本とアジア」(22)
初めてカンボジアを訪れたのは、1965年3月。
ほぼ半世紀前です。
ポル・ポト登場以前、シアヌーク国王の時代でした。
「微笑みの国」といわれる穏やかさ。
小さな池のそばを通りかかりました。
何十人という老若男女で、池は大賑わいーー。
それぞれ、手にしているのは、直径40センチぐらいの円錐形の竹かご。
側面だけで、底も上部もありません。
それを池の中に突っ込み、中の魚を上から手づかみで獲る。
そんな漁法です。
シエムリアップの宿で自転車を借りました。
アンコール遺跡は、周辺の寺院群を含めると、まるで奈良の町。
人家の代わりに、ジャングルがあります。
舗装された周遊道路を、遺跡めぐりをしながら、ゆっくり1周してちょうど1日。
途中の売店で、いつもコーラを1本飲みました。
アンコール・トムのテラスで、まどろみました。
ちょっとジャングルの間の横道に入り込むと、不思議な遺跡が、次から次にと待ち受けています。
「発見」の連続といいたいような日々。
夢のようでした。
首都プノンペンから、乗り合いタクシーでベトナムのサイゴン(現ホーチミン)に向かいました。
ベトナム戦争の真最中。
アメリカ兵を各地で見かけました。
さいわい、戦闘に巻き込まれることもなく、その日のうちにサイゴンにつきました。
27年後の1992年3月にも、同じ国境を通りました。
中越国境の「アリの行列」を見た直後です。
中国からべトナムへ、ベトナムからカンボジアへ、そして、東南アジア各地へ――そんな大きな物流の流れを感じました。
ついでに、カンボジア・タイ国境にある、クメール寺院に、タイ側から足を伸ばしてみました。
パナスバン寺です。
元は領有問題でもめていたのですが、1962年に国際司法裁判所がカンボジア領と裁定しています。
奥の院に、政府軍かポル・ポト軍側か、小さな塹壕のような跡がありました。
その内戦が終わって、警備していたのは、いかにも退屈そうなタイ兵たちでした。
そして、バンコク発の観光バスが、次から次にと乗り入れていました。
奥の院の真下は、高さ500mといわれる断崖。
そこから見下ろす、緑のカンボジア平原の広がりは見事でした。
posted by Yoshimura_F at 07:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 卒業論文集

2013年04月16日

中越国境

試論「日本とアジア」(21)

高度差にして150mぐらい。
山を巻いて尾根まで、延々と続く人の列。
まるでアリの行列です。
1979年2月、突如、中国軍がベトナムに攻め込みます。
前年暮、ベトナム軍がカンボジアに侵攻したことに対するケ小平の「懲罰」です。
それから10年余りが過ぎた1991年11月、ようやく両国の国交正常化が決まりました。
わたしが、ベトナム側から中越国境を訪れたのおは、それから3ヶ月が過ぎた1992年2月、でした。
国境の町ランソンは、国交正常化へ向けて、あちこちで建設工事の真最中でした
それでも鉄道は、断ち切られたままでした(中国は広軌、ベトナムは狭軌、3本のレールでいずれの列車も入れるようになっています)
町を離れて、国境に向かう途中で出会ったのが「アリの行列」です。
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男も女も、大きな荷物を両てんびんで担いでいました。
片方だけでも、わたしには持てないほどの重さです。
担いできた荷物は、待ち受けた小型トラックに移されます。
(貧しい)中部ベトナムからの出稼ぎが多い、と聞きました。
政府公認の密貿易。
「せめて、道路を使われればよいのに……」と思ったものです
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2013年04月15日

ブータン山門

試論「日本とアジア」(20)

インドからブータンへ――まるでお寺に入るときの山門のようなゲートをくぐって入国します。
1982年秋でした。
山門に遮断機がありました。
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ただし、いつもあがったままで、人々は自由に行き来しています。
山門のインド側がジャイガオン、ブータン側がプンツォンと名前は違います。
しかし、実際には、同じ町の一部です。
ブータンでは、首都チンプーで、先代のシンゲ・ワンチュク国王にお会いしました。
「若いなぁ」というのが、一番の印象でした。
当時26歳、まだ結婚前でした。
『国王陛下にご説明申しあげていた。ふと見ると、陛下が電卓で検算をしていらっしゃる』
ひとりの若手官僚に聞いた話です。
2006年、51歳という若さで現国王に譲位なさいました。
いま、いかがお過ごしか?
最も気になる、古き指導者の一人です。
1週間ほどの出張で、7回連載の報告をしました。
最終回は「GNPに出ぬ豊かさ」
この国の豊かさの実例。
「食事の前の手洗いをブータン人はご飯で行う。ご飯を一握りとり、それで両手のひらをこすって汚れをとる」
posted by Yoshimura_F at 05:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 卒業論文集

2013年04月14日

クンジュラブ峠

試論「日本とアジア」(19)

標高4,693m、カラコラム・ハイウェイの中国とパキスタンの分岐点、つまり、国境です。
なんにもない――そう思った記憶があります。
高度から言って当然のことですが、冷たい風が吹いていました。
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ハイウェイは、K2(8611m)やナンガ・パルバット(8125m)などヒンズークシの山々を真近に望むことのできる「絶景の道」です。
長寿で知られるフンザの里も道路沿いです。
しかし、事故があれば、インダス川まで100m以上も転落しそうな崖沿いの道です。
舗装もない砂利道で、ガードレールもありません。
絶景は、恐怖と隣り合わせです。
道路をつくったのは、中国。
橋の欄干は獅子頭で飾られ、何十という名前を記した工事犠牲者の碑もありました。
もしかしたら、「何十」は、百を越していたかもしれません。
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2013年04月13日

アフガニスタン・旧ソ連国境

試論「日本とアジア」(18)

アム・ダリア川にかかる鉄橋です。
この川が、アフガニスタン・ソ連国境です。
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1989年5月、旧ソ連軍のアフガニスタン撤退が始まりました。
その第1陣に同行しました。
川を越えると、ひと休み。
川べりの崖の上に大きな建物がありました。
その脇の草地です。
旧ソ連兵たちが、喜びを爆発させました。
腰を落として足を動かす、コザック・ダンスの輪。
あっちでも、こっちでも。
そして、握手、握手……
旧ソ連兵と握手した数では、わたしはおそらく、日本人ではトップクラスです。
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2013年04月12日

パキスタン・アフガニスタン国境

試論「日本とアジア」(17)

国境を無断で通り抜けたことがあります。
地理17.JPG
1989年1月、ちょうど昭和天皇が崩御したころです。
本社から写真部を呼びたかったのですが、それどころではありません。
イスラム戦士(ムジャヒディン)の一行に、単身、加えてもらいました。
携帯などまだない時代です。
「ヨシムラは10日間ほど連絡不能になります」
そんなテレックスを、ペシャワルの電報局から本社に打ち込んだのを覚えています。
旧ソ連軍が撤退したのが、前年5月から9月にかけて。
残されたカブールの共産党政権と、地方に割拠するイスラム勢力のいずれか勝ち残るか?
現地で、それを見たいと思いました。
なにより、旧ソ連軍撤退後、(多分)世界ではじめての『解放区』ルポです。
放棄された旧ソ連軍基地を通り抜けたときのことです。
ムジャヒディンの隊長が、若い隊員を指差しながら、わたしにいいました。
「ひとりで歩くな。必ず、この子の足跡を踏んで歩け!」
――地雷が埋まっているかもしれない!
もし埋まっていたら、犠牲になるのは、若い隊員です。
客人であるわたしは守る。
ムジャヒディンの、あるいは、イスラムの“武士道”です。
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2013年04月05日

インド・バングラ国境 ハイバル峠

試論「日本とアジア」(16)
バングラ・インド国境
どこだったか? バングラデシュの田舎町でした。
町の人がいいました。
「今夜は、インドで映画を見るんだ」
一本のまるで踏み切りのようなバーで区切られた国境。
男が見ているのは「外国」です。
地理16.JPG
でも、その外国は、首都ダッカよりずっと身近です。
もちろん、同じことはインド側からもいえます。
国境の向こうにあるバングラデシュの町は、州都コルタカよりも、首都ニューデリーよりも、ずっと身近。
ニューデリーで話されているのは、ヒンディ語や英語。
しかし、国境を越えた「外国」の人々が話すのは、こちら側と同じベンガル語です。

もう1枚の写真は、パキスタン側のハイバル峠からアフガニスタン側を見下ろしたところ。
紀元前4世紀にアレクサンダー大王が軍勢を引き連れて通った道。
わたしも何度となく、ハイバル峠に通いました。
アフガニスタン内戦をカバーするためです。
旧ソ連軍のアフガニスタン侵攻は、1979年12月末、クリスマスの朝でした。
翌年2月から4年間、わたしはニューデリー特派員でした。
アフガニスタンの共産党政府は、西側ジャーナリストの入国をなかなか認めません。
いきおい、国境の外から、ウォッチすることになります。
19世紀、インドを支配するイギリス植民地軍とアフガニスタンの土着勢力が戦った2度にわたるアフガン戦争の結果、生まれた「国境」。
「坂の上」をイギリス(いまはパキスタン)が、押えています。
そして、パシュトーン人を勝手に2分した「国境」です。
パキスタン側の峠付近では、パキスタン政府も簡単には手を出せない部族地域です。
銃を手にした男たちがうろうろと歩き回っています。
道の両側に列を作った、インド人の両替商もいます。
近くのダラという町は、武器作りで知られます。
実際の国境は、くねくねと曲がった道をアフガニスタン側に数キロ降りたところにあります。
踏切のような、手動式の木の横木があって、いつ行っても、いかにも頼りなさそうなアフガン兵が、鉄砲を肩に警備していました。
posted by Yoshimura_F at 06:22| Comment(3) | TrackBack(0) | 卒業論文集

2013年04月04日

オープンな国境、閉じた国境

試論「日本とアジア」(15)

「日本の読者に理解してもらうのは、不可能だ」――アジアで特派員をしていたころ、そう思ったテーマが3つあります。
国境と民族、それに宗教。
理解するためには、わずかでも、素地のようなものが必要です。
そういう素地が、日本人には著しく欠けている――そんな主題です。
日本の国境は、遠い海の上にある「見えない線」です。
地理15.JPG
他方、アジアの大部分の国々にとって、国境とは、陸続きの土地の上に引いた「勢力の境界」です。
「目の前にあって」「片足ずつ(別の国に)乗せることのできる」境界。
その境界をはさんで、両側に住む人々のみかけや文化、あるいは、農産物、そして自然条件まで、ほとんどいっしょ。
しかし、国籍や通貨、法律やモノの値段などが違う。
通行には、ときに面倒な手続きが必要とされ、ときには、通行自体が禁止される。
マラッカ海峡やベンガル湾など、川や海が国境とされることも、ときに、あります。
しかし、それが必ずしも交通の障害ではないこと。
むしろ、地域と地域、人と人をつなぐ「高速道路」である場合が多いこと――あらためて確認しておきます。
posted by Yoshimura_F at 06:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 卒業論文集

2013年04月03日

クニ(国家)と国境  むかしといま

試論「日本とアジア」(14)

「固有の領土」といいます。
どういう意味でしょう?
国境とか領土とかいう考えは、いつごろからのものか?
地理14.JPG
領土・領民は、君主(領主)のもの――むかしの人々は、そう考えていました。
だから、税を取られる…と。
君主の側からいえば、代官を派遣して税を徴収できれば、それが領土であり、領民です。
隣り合う君主との勢力の境界線――そこに国境が生まれます。
君主や側近の能力によって、広がったり、縮んだり……。
砂漠やジャングル、海洋などは、税を取り立てられません。
そんな「無主の土地」では、境界は、あいまいです。
さて、19世紀初め、西欧の一部で主権国家体制が生まれました。
主権者が、君主から国民に代わります。
国民は、君主より貪欲です。
「無主の土地」にも、所有権を主張します。
posted by Yoshimura_F at 07:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 卒業論文集