2013年03月31日

2酒類の国家

試論「日本とアジア」(12)
アジアの国々 2種類の国家
1)民族や宗教による分断
2)国境による民族の分断
3)政府と国民の分断
アジアの国々が持つ、基本的な3つの分断(バラバラ)。
その様子を、模式図にまとめてみました。
2つのかたまりがあります。
上段の三角形と、それを含めた楕円形です。
地理12.JPG
「三角形」が、統治機構です。
独裁者(集団)のもとに、統治者集団が形成されます。
具体的には、官僚と将軍、それに御用知識人たち。
それが、実際の「国家」。
では、楕円形は何か?
「形の上の国家」あるいは「思いこみの国家」。
三角形の下の縦に細長い楕円は、いろいろな民族・宗教グループです。
それぞれバラバラ、そして、それぞれ国境の外にはみ出ています。
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2013年03月30日

三つのバラバラ

試論「日本とアジア」(11)
アジアの国々
アジア諸国の特色をまとめてみます。
3種類の「分断」が指摘できます。
3つのバラバラ、といってもよいでしょう
地理11.JPG
1)民族や宗教による分断
第二次大戦後、植民地が独立して、多くの国々が生まれました。
新興国のナショナリズムに期待が寄せられていました。
わたしが小学生あるいは中学生だったころです。
漠然と「輝くアジア」を思いました。
大人になって、現地に赴いて知ったこと。
それは、子どもの幻想だった――。
なぜ?
ナショナリズムの基礎となる、「国民(nation)」が、いなかったのです。
人々は、国民である前に、いろいろな民族集団や宗教集団の一員でした。
ともあれ、国民がバラバラ、という現実。
2)国境による民族の分断
同一の民族が、「国境」によって分断されている――アジアのどこでも普通なことです。
というより、民族の居住区ごとに国境を定めるなどということは、とうてい不可能なことです。
だから、くりかえしになりますが、民族が国境のためにバラバラ、という現実。
3)政府と国民の分断
ちゃんと選挙が行われる国は、アジアでは少数派です。
人々が、自らの運命の決定に参与できない。
そして、軍や政党、有力者一族などによる支配が続く国々。
政府(権力)と国民がバラバラ、という現実。
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2013年03月29日

政府と国民

試論「日本とアジア」(10)
日本とアジア諸国 何が違うかB 政府と国民
現代国家にあっては、天皇や国王は「国家の象徴」ではあっても、主権者ではありません。
主権者は、「国民」です。
しかし、現実に、国民が主権者として働くのは、選挙のときだけです。
選挙で、代理人を選びます。
選ばれた政治家たちが、代理人です。
議会で国政の方針を決め、政府を組織し、官僚を指揮して国家の運営に当たる――それが、民主主義の仕組みです。
アジアでは、そのような仕組みが長期にわたって続いてきた国は、インドなどごく一部に限られてきました。
アジアの国々の多くが、かつて欧米諸国や日本の植民地かそれに近い状態。
第二次世界大戦後に独立したものの、その後も、ほとんどの国でいわゆる「独裁体制」が続きます。
独立に貢献した個人やその一族、権力を握った軍人集団や政党――いずれにしても、「みんなの代表」ではありません。
地理10.JPG
ごく一握りの人々が、官僚を使って国家を運営する――そんな仕組みが長く続いてきた。
それが、アジアの国々です。
いまも、その仕組みが続いている国もあります。
そのような国の場合、独裁者や党といった少数の支配者グループは、かつての王族や植民官僚らとそれほど変わらないといえます。
彼らが、行政機関、あるいは軍や警察といった暴力装置を指揮して権力を振るう。
そんな仕組み――仮に「人民主権」がうたわれているとしても、人民にはその「主権」を行使する機会がありません。
そのような国々で、当然起こること――国民は政府を信じない。政府は国民を信じない。
いいかえれば、政府と国民のあいだの断裂。
これが、多くのアジア諸国に見られる(あるいは、つい最近まで見られた)第3の分断です。
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2013年03月28日

ALL-WE社会とWE &-THEY社会

試論「日本とアジア」(9)
ALL-WE社会とWE &-THEY社会
イギリスの社会人類学者E・リーチによると、「他人」は2種類に分けられます。
WE (われわれ)とTHEY(彼ら) です。
WE(われわれ)は、基本的に血族です。
それは、「敵であることが証明されるまでは味方である」人々。
とりあえず、あなたを殺さない(だろう)人々。
地理9.JPG
他方、
THEY(彼ら)は、配偶者を含めて、血族以外の人々。それは、つまり、
「味方であることが証明されるまでは敵である」人たち。
では、敵とは、なにか?
とりあえず、あなたを殺す(かもしれない)、あるいは、あなたから(モノや家族を)奪う(かもしれない)――そんな恐ろしい人々。
ジャングルで、あるいは砂漠で遭遇した、見知らぬ、ことばも通じない他人。
あなたを殺すかもしれない、恐ろしい敵?
多分、そうです。
でも、実際は、そうではないかもしれません。
そのことを、どう確認するか?
笑顔、あいさつ、贈り物――THEYに対処する、生活の知恵です。
それが国家規模になれば、外交。
わたしの考えですが、そんな知恵、そんな外交が、驚くほど欠如しているのが、わたしたち日本人です。
知らない他人に対する、徹底した仏頂面――新幹線で、航空機で、公園で……ごく普通に体験することです。
なぜか?
縄文人と弥生人を1000年以上も、もちをつくようにして、こねまわしてできた民族だからだ、といったら間違いでしょうか?
いわば、同質社会。
知らない他人でも、「自分を殺すかもしれない」とまでは考えない甘さ。
だから、安心して、付き合い(外交)放棄!
それがつまり、わたしたちの「人類みな兄弟」の裏側ではないでしょうか?

もし、異質なものがいたら――それは人(ヒト)ではありません。
鬼です。異界からわれわれの世界に迷い込んで来た「鬼」。
抹殺し、排除すべき鬼。
「人類みな兄弟」+「異質は、異界から来た鬼」――そんな、わたしたちの人間観は、世界でもひどく珍しい、そして、風変わりなものだろう、と思います。
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2013年03月27日

日本とアジア諸国 何が違うか@

試論「日本とアジア」(8)
日本とアジア諸国 何が違うか@
 
日本は、海流という障壁に囲まれています。
それは、もちつきの臼のようなものです。
そのなかで、縄文人と弥生人を中心とする人々が、少なくとも平安時代以来、1000年以上にわたって、餅をつくように混ぜこねられてできてきた――それが日本人という集団ではないでしょうか。
同じ1000年余りの歳月、陸続きの大陸では、ちょうど氷河期に縄文人が列島に次々にやってきたように、人々は、あっちにこっちにと移動を続けています。
それだけではありません。戦乱や飢饉、疫病の流行などもあります。
ときに、軍団や難民などの大集団が、大規模な移動を展開することもあります。
国境? どこに? ――それが、現実でしょう。
「民族」という大きな岩が、ごろんごろんとある川底。
大雨のたびに、それぞれの岩は位置を変える。
「クニ」とは、いってみれば、そんな岩だらけの川底に柵をして囲ったようなもの。囲いの中に、いろいろな岩がある。岩によっては、一部が柵の外にはみ出している。囲いの柵も、状況によって位置を変える――そんな風に考えることができます。
地理8.JPG
どのように囲ってみても、避けられないこと。
1)柵の中にいろいろな岩がある。
2)ほとんどの岩の一部が、柵の外にはみ出ている。
――それが、大陸における「クニ」の姿です。
つまり、ユーラシア・アフリカの国々の姿です。
繰り返しになりますが、世界の国々に普通な2つの分断――それは次のように整理できます。
1)民族や宗教(文化集団)による、国家の分断
2)国境による、(個々の)民族の分断
そのいずれもが、日本には(ほとんど)ない――驚くべき不思議の国です。
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2013年03月26日

日本とアフガニスタンA

試論「日本とアジア」(7)
日本とアフガニスタンA

日本列島の住民の祖先――縄文人と弥生人がベースです。
それに、最古の旧石器人や最新(?)の渡来人をいくらか加えることができます。
明治以後も考慮するなら、少数の朝鮮半島系やインド系も加えられるでしょう。
この図では、そういう少数派は捨象され、縄文系、弥生系と区分されています。
しかし、現実にいま、両者を区別する人はいません。
アフガニスタン――多数派は、パシュトーン人です。
しかし、その他にも、いろいろな民族が、地域を分けて居住しています。
もちろん、現実の地域分けは、図のような簡単なものではありません。
混血もあるし、都市では、別々の民族に属する家族が隣り合って住むのは、普通のことです。
日本とアフガニスタン――現実に、両国の社会の成り立ちは、歴然と違います。
地理7.JPG
アフガニスタン、ひとつの代表的な例です。
陸続きの大陸(ユーラシア、アフリカ)のすべての国が、程度の差はあれ、どちらかということになれば、アフガニスタン型です。
日本と同じように、両大陸からかつて孤立していたアメリカ大陸、オーストラリア、ニュージーランドなども、地理上の発見と呼ばれる時代いらい、超がつくほど大量の移民を受け入れました。
いえ、いまや間違いなく、移民の国です。

こうして考えると、日本だけが、世界でもまれな、不思議の国であるように思えます。
それは、単民族国家とか多民族国家とかといった「用語」の問題ではありません。
認めるしかない、現実です。


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2013年03月25日

日本とアフガニスタン@

試論「日本とアジア」(6)
日本とアフガニスタン@

日本とアフガニスタン――2つの国の地図を並べてみました。
それぞれ、まったく違う成り立ちであることが分かります。
地理6−2.JPG
日本は、隣国との間に海があります。
強い海流が流れています。
境界に「厚さ」があり、障害があります。

アフガニスタンは、イラン、トルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、中国、パキスタンと、6つもの国と国境を接しています。
国境――それは、陸続きの大陸の一部に、人為的に引かれた線です。
「線」の数学的定義は、「厚さ0の図形」ということ。
概念的につくられた「厚さ0の」境界。
その「厚さ0」の境界に囲まれた範囲が「クニ」です。
その境界を越えて、人々が動くのも、つながるのも、自然なことです。
朝鮮海峡や宗谷海峡の幅がほとんど0だった氷河時代に、縄文人が(多分ポツポツと)この列島にやってきたことを思い出してください。
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2013年03月24日

アフガニスタン 民族図

試論「日本とアジア」(5)
アフガニスタン 民族図
日本とまったく成り立ちの違う国を、紹介してみます。
アフガニスタンです。最初のアジア全図で、みどり色に塗りました。
取材で何度も訪れたせいで、わたしには懐かしい国です。
黒い実線が国境です。
いろいろな民族が色分けで示されています。
地理5.JPG
パシュトーン人(族)は、イスラム教原理主義集団とされるタリバンの主要な支持勢力です。アフガニスタンだけでなく、パキスタンの北西辺境州などにも、広く居住しています。
だから、いまのアフガニスタンとパキスタンにまたがる、パシュトーン族の新国家「パクトニスタン」をつくろうという運動が、古くから展開されてきました。
バロク(バルチ)人も、主要なベースは、パキスタンのバルチ州です。
北方のタジク人、ウズベク人、キルギス人などについてみても、アム・ダリア川の対岸にタジキスタン、ウズベクスタン、キルギスタンなどといった<民族のベース>があります。
ハザラ族は、中央部のバーミヤン一帯が、主要な根拠地です。タリバンに破壊された大仏がある辺りです。
ハザラ族は、モンゴロイド系だから、わたしたち日本人に似ています。わたし自身、アフガニスタンに潜入したときは、ハザラ族の扱いでした。
さて、ここに紹介した図で見て欲しいこと――。
一つの国の中に、はっきりと違いの指摘される、いろいろな民族集団が混じり合って住んでいること。
こうした状況は、アフガニスタンに限りません。
アジアのどの国をとっても、さまざまな異質な民族(宗教)集団が混在しています。
例外は、日本と韓国ぐらいのものです。
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2013年03月23日

日本人とは?

試論「日本とアジア」(4)

日本人とは?
わたしたちの祖先?
いったい、何者なのか?
謎めいた課題のようですが、考えようによっては、答は簡単です。
この列島に相当規模の人口の流入があったのは、2度だけです。
地理4.JPG
最初は、1万年以上前、地球がまだ氷河期だったころです。
海洋が後退し、距離的に短くなった朝鮮海峡や間宮海峡を渡るのは、比較的容易でした。
その土器の特徴から、縄文人と呼ばれています。
2度目は、前1000年期の後半ごろから紀元後の初期にかけて。
土器の特徴から、弥生人と呼ばれます。
大陸・中原では、春秋戦国時代と呼ばれる戦乱や、秦の始皇帝による統一、漢の建国など大きな変動が続いた時期です。
そんなとき、漢字も知らない(しかし、水田耕作技術は身に付けた)辺境の民が、中原の動乱に押し出されるようにして、列島に渡ってきた。
「隔てる海」に舟を出す。
よほど、差し迫った状況があったに違いありません。
ミトコンドリアDNAは、交雑によって変化することなく、母から娘へと伝えられます。
その解析によると、アイヌや琉球、九州、東北は比較的縄文人の痕跡が強く、本土人は弥生人の痕跡が強いとされています。
しかし、せいぜい「痕跡」程度のことです。
その後――4cごろから7cごろにかけて、朝鮮半島から渡来人(帰化人)と呼ばれる人々がやってきました。
朝鮮半島にあった百済が滅亡するのが、660年。
またしても、切羽詰まった状況があったに違いありません。
それから明治維新まで約1,200年。
その歳月をかけて、最古の住民である新石器人、それに続く縄文人、弥生人、そして最新の渡来人たちが、餅をつくようにしてこね回されて出来上がった人々――それが、日本人だ、と考えることができます。
図は、住斉(すみ・ひとし)・筑波大名誉教授(生物物理学)が考案した計算式による。2008年08月04日 産経新聞ニュースから
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2013年03月22日

「隔てる海」と「つなぐ海」

試論「日本とアジア」(3)
わたしがいま、伝えたいこと。
とりあえず、日本が、とてつもなく「変わった国」だということです。
その理由――。
間違っても、島国だからではありません。
WS000003.JPG

海には、「隔てる海」と「つなぐ海」があります。
大西洋や太平洋は、歴史時代の長い期間を通じて、「隔てる海」でした。
その距離を克服する技術がなかったからです。
しかし、地中海やインド洋、南シナ海などは、ほぼ一貫して「つなぐ海」でした。
日本の瀬戸内海や琵琶湖も、同様です。
大量の貨物や兵員を一挙に運ぶ。
現代でいえば、高速道路です。
では、日本列島周辺の海は、どうか?
大陸との距離は、それほどでもありません。
しかし、「隔てる海」だった。
なぜか?
潮流のせいです。
黒潮、その支流の対馬海流、そして、北からの親潮。
いずれも世界有数の急流です。
わたしの考えでは、この海流こそが、日本を「変わった国」にした理由です。
菅原道真の建議で、遣唐使船の派遣を取りやめる(894年)理由となった海流、
いまも、北朝鮮(?)からの漂流民を飢え死にさせる海流。
この強烈な海流という障壁。
それこそが、「特異な国」日本を生んだ――そう、わたしは考えています。
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2013年03月21日

ユーラシア大陸

試論「日本とアジア」(2)

日本が、ひどく「変わった国」であること。
日本の置かれた地理的条件から考えてみます。
WS000002.JPG
子どものころから見慣れた地図です。
細くて分かりにくいのですが、大陸のあちこちに黒い曲がった実線がひかれています。
国境線です。
日本が、他の国々と違うのは、一目瞭然です。
日本は島国です。
どの隣国とも海によって隔てられ、陸路で行き来できる場所は1か所もありません。
アジアには約50の国や地域があります。
島国はそのうち、日本、フィリピン、シンガポール、インドネシア、スリランカ、モルディブの6カ国だけ。
厳密にいえば、シンガポールはコーズウェイでマレーシアとつながっています。
インドネシアはマレーシアやパプア・ニューギニア、東ティモールと陸でつながっています。
そうすると、純粋に孤立した島国といえるのは、日本、フィリピン、スリランカ、モルディブの4カ国だけです。
地図でみどりに塗られた国があります。
アフガニスタンです。
なぜ、特別にみどり色に塗ったか?
理由は、あとで説明します。
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2013年03月20日

『世界の孤児」日本

試論「日本とアジア」(1)
「世界の孤児」日本
一昨年から、関西のある大学で、講義をしています。
タイトルは「アジアメディア文化論」。
3人の講師によるオムニバス講義です。
3人とも、かつてアジア報道に関わった経験があります。
そこからつけたタイトルです。
この講義でわたしが用いたパワーポイントをもとに、画像集をまとめてみたいと思います。タイトルは、試論「日本とアジア」。
来年度の講義の準備という意味もあります。

わたしが初めてアジアを体験したのは、1964年秋から65年春にかけてです。
大学4回生のときでした。
フランス郵船の貨客船で、サイゴン(ホーチミン)経由、シンガポールで上陸しました。
マレーシアのケダ州で少数民族のペグミート族の村で住み込み調査をした後、ペナンからマドラス(チェンナイ)に渡り、インド、ネパール各地を回りました。
ほとんどがヒッチハイク、宿泊はシーク寺院や駅舎といった、かなり過激な貧乏旅行でしたが、それでもデカン高原奥地のマリア族の村で、やはり住み込み調査をしました。
帰途は、タイ、カンdボジアを回り、ベトナムのサイゴンから神戸に戻りました。

その後、わたしは新聞社に入社し、1970年代にジャカルタのインドネシア国立大学に語学留学、1980年代から90年代にかけて、ニューデリー、シンガポール、ジャカルタ各特派員として、南アジア、東南アジア一帯をカバーしました。
2000年代にはいると、さいわいとしかいいようがないのですが、龍谷大学国際文化学部で教えることになりました。
アジアについての科目も、担当しました。

人生の相当部分を、いわば、アジアを肌身に感じて過ごしてきた、といえると思います。
そうした個人的なアジア体験を通して、いま、はっきりと思うことがあります。
「アジアを考えることは、日本を考えること」
そして、
「日本は、アジアの国々と比較すると、ひどく変わった国だ」
「変わった」というのは、「異質」あるいは「特異」という意味です。
その点で、日本は「アジアの孤児」です。
アジアの広がりを考えるなら、それはつまり、「日本は世界の孤児」だ、ということです。

友だちの欲しい私たち。
「世界の孤児」などとは、考えたくもありません。
しかし、それが逃れようもない現実であるように、わたしには思えます。

なぜ、日本は「世界の孤児」か?
幸か不幸か、瀬田国民学校が春休みにはいりました。
その空閑を利用させて頂いて、これからしばらく、「さきほど若者気質」のコーナーで、その理由を考えてみたいと考えます。

地理1.JPG
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