2012年08月28日

おカネ信号”の提唱――経済を記号論から見る――(62)

第4節 根源的問題14

 なぜ、このようなことになるのか。
 ことばもおカネも、象徴(シンボル)であり、記号であるに過ぎないからだ。
本体は現実そのものであり、そのことがらであり、そのサービスだ。
当然のことだが、供給には限りがある。
それに対してことばやおカネは、いわば、影のようなものだ。
影だから限界がない。複製も増幅もできる。
現実には不可能なことが、影の世界では可能になる。
現実の肉体では不可能なことが、夢の世界ではいくらでもできる。
実の世界ではありえないことが、虚の世界では可能になる。
ことばの世界でいえば、そこに詩があり、文学があり、そして、詐欺がある。
詐欺ごときを詩や文学と並べると、一本気な「坊ちゃん」なら怒り出すかもしれないが、漱石先生自身が「ネコにヒト語をしゃべらせて」いる。
 おカネの領域でいえば、そこに虚業というビジネスチャンスが生まれ、ごくたまに、それがうまくいって実業となり、そして、うまくいかなければ、ときに詐欺になる。
わざわざ例をあげることはしないが、そういうことがごまんとあるのが、現実の世の中ではないか。
 ことばもおカネも、もしそれだけを取り上げるなら「なんでもあり」だ。それが象徴(シンボル)ということであり、記号というものだ。実体ではなく、その「影」に過ぎないからだ。
 ただし、制約がある。「社会性」という制約である。
 ことばは、「聞く気」のある耳にしか届かない。
 おカネ信号は、「払う気」のある相手にしか意味はない。
 そこに、おそらく、希望があるのだろう。
求められるのは、「聞く側」「払う側」の正気である。虚を虚として認識し、鎖によって現実と結びつけること。
 その鎖が腐食してきたとき、記号はその魔性によって際限のない自己増殖を開始し、暴走し、そして、わたしたちを虚の世界に引きずり込む。
 おカネを実体経済に閉じ込めてきた金本位制から、世界が離脱して半世紀近い。実体経済の規模を超えて世界各地で「生み出された」大量のおカネが、いよいよ暴れかけてきているのではないか。
いまは、おカネを生み出す方法ではなく、それを制御する制度的な仕組みを考えるときのように思える。
                    止
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2012年08月27日

おカネ信号”の提唱――経済を記号論から見る――(61)

第4節 根源的問題13

 おカネも、「なんでもあり」かどうか?
もちろん「おカネがあればなんでもできる」ということではない。だいたい、そんなこと自体、あり得ないのは分かっている。問題は、こういうことだ。
おカネそのものが「どうにでもなる」程度のものであるかどうか?
だれしもおカネで苦労している。もし、「どうにでもなる」程度のものだったら、どんなにうれしいだろう。
 わたしが本論で提案したのは、おカネの本体は「おカネ信号」だという考えである。それは、価格というかたちで、何にでも乗り移ることができる。数字は、自由につけられる。ただし、相手方との「合意」がなければ、実現しない。この意味で、合意という社会性こそが、カギだ。
ことばとおカネを比較した際、(3)「存在しなくても、存在する」でも触れたことだが、なんでもない池の水、川の水……それがある日、ペットボトルに入れられ、価格がつく。
売れない俳優、売れない小説家……それがある日、大ブレークする。
二束三文の山林……そこに開発計画が打ち出され、とたんに、価格は跳ね上がる。
大気汚染・地球温暖化の元凶といわれる二酸化炭素――その排出権に価格が付き、売買される。
あるのかないのか、実在すら確かめられていない死後の世界――そこに無事に行き着くのに、おカネの支払いが求められる。
こうしたおカネのどこに、どんな合理性があるだろうか?
合意という条件付きづきではあるが、「なんでもあり」としかいいようがないではないか。
 極め付きは「借金」というおカネだ。住宅ローンというおカネを借りる。おカネはマンションと交換され、あとにローンという負債が残る。あなたのこれからの30年間の勤労という「血と汗」によって払われるおカネだ。現実には、まだどこにもない、いわば「未来のおカネ」でもある。そして、30年たって払い終わった瞬間、そのおカネは文字どおり雲散霧消する。
 国家も多くの企業も、そんな「未来のおカネ」が頼りだ。そんな「目に見えないおカネ」が増えに増えて、いまや、地球の空を覆いつくしているのではないか。そんな気がしてくるのが、現代という時代ではないか。
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2012年08月26日

マッドリブという手法

おカネ信号”の提唱――経済を記号論から見る――(60)
第4節 根源的問題K

(19)「なんでもあり」という魔性
 ことばもおカネも、「なんでもあり」だ。
このことは、記号という仕組みのもつ、ある種の魔性であろう。
ことばから考える。
アメリカの大学で学ぶ「文章製作」の指導法に、madlibという技法がある。マッドな(狂った)アドリブという意味だ。
学生たちにまず、思いついた形容詞をノートに記入させる。「大きい」「丸い」「短い」「四角い」「美しい」「醜い」…といった類だ。それから教師が、あらかじめ決めておいた名詞を示す。「数学」「スポーツ」「窓」「卵」「地球」など、なんでもよい。
 そこで学生はそれぞれ自分で決めていた形容詞に合わせて、「数学は大きい」「数学は丸い」「数学は短い」「数学は醜い」、あるいは「「スポーツは大きい」「スポーツは丸い」といった命題で始まる、だいたい3段落ぐらいからなる短い文章を即席でつくる。
わたしは、このmadlibについて、大学の同僚で法律家でもある、アメリカ人の教師から教わった。日本でいえば三百代言、いわば「まるを四角といいくるめる」訓練だが、ある種の論理性を養成する方法なのであろう。
 「ことばとは、何でも言える道具だ」――この指導法を教えられたときあらためて、思ったことだ。
たとえば「卵は四角い」という命題、「豆腐は硬い」という命題、「地球はふわふわしている」という命題……それらの命題を3段落ほどの文章で読み手に納得させる。求められるのは、そんな技術である。
そして、それは不可能なことではない。
どんなことでもいえる、事実とまったく反していても、相手になるほどそうかと思わせることができる。それが、ことばの本質だ。
そのことは、たとえば政治家の記者会見、エコノミストたちの景気予想、テレビのCM、政治記事の解説、寅さんの啖呵、子どもの言い訳などを思い起こせば十分だろう。
 おカネの場合は、どうか。
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2012年08月25日

おカネ信号”の提唱――経済を記号論から見る――(59)

第4節 根源的問題J

(18)いま、アメリカ語とドルが世界でのしている
グローバル化ということがいわれて久しいが、実体は「アメリカ化」だ。
アメリカが、民主主義という政治システムから金融システム、企業経営や大学にまで「アメリカン・スタンダード」を世界に押し付けようとしている。
そのことが世界を大きくゆがめていると思うが、半世紀にわたって世界を分けた東西冷戦の勝者として、あの国と国民がある程度の報酬を求めるのは、仕方のないことなのかもしれない。新しい通信技術、その事業化に先鞭をつけたのも、アメリカだ。そういう中で、冷戦の終結後、急速に進んだのが、アメリカ語の普及と世界経済のドル化である。
いっときのことかもしれないとしても、アメリカ語ないしは英語がいまや、国際スタンダードである。
企業社会もそうだと思うが、わたしが知っているのは、かつて勤めた大学での経験だ。
理科系、文科系を問わず、論文は英語で発表することが求められる。授業ですら、英語で行うことが望ましいとされる。アメリカ語の講演は、内容がなくても、耳をそばだてて聞かねばならない。
おカネについてみても、「双子の赤字」を抱えて、決して強くはないはずのドルが、世界経済の主軸である。外国人投資家という名のドル資金が、各国の金融市場を動き回り、各国の経済や企業の命運を決めている。アメリカ国債という債務を世界が負担し、(多分)儲けさせてもらっている。それどころか、サブプライムなどという、なんともあやしげな債務まで、世界中の金融機関で分担していた。
振り返って、ことばの世界では、かつてあった何千、何万という言語が消滅し、国民国家の成立とともに、国家の言語に統合された。そしていま、アメリカ語が世界の学問、研究におけるスタンダードになりつつある。
おカネの世界で見ても、かつて各地にあったローカルなおカネは次々に消滅し、国民国家の成立とともに、国家通貨に統合された。冷戦が終焉して、国際社会で圧倒的な力をもったのは、いまのところはアメリカ・ドルである。
ことばとおカネの並行現象は、歴史のなかでいくらでも見出すことができる。
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2012年08月24日

おカネ信号”の提唱――経済を記号論から見る――(58)

第4節 根源的問題I

(17)ことばの指導者とおカネの指導者が併存する
 おカネとことばがセットとなっているのは、広く権力一般の構造である。
古来、多くの帝国、王国が、世俗の権力者である王や皇帝と、ことばの支配者である宗教家を指導者のセットとして運営されてきた。
世俗の権力者は、おカネの支配者だ。税を取り立てる権限、そして、最終的には暴力を発現する権限をもつ。
他方、宗教家は、ことばの支配者だ。主要な機能は、世俗の権力者である王や皇帝を支え、その地位の特異性を一般民衆に受け入れさせること。もっといえば、王権による徴税を庶民に納得させることだ。
わたしの考えでは、帝王、官僚、宗教家は、農業社会における権力機構の3点セットだ。(自分は働かず)税で食いつなぐ人々である。帝王と官僚がおカネの部分を受け持つ。宗教家が、ことばの部分を受け持つ。それに、暴力機構の中心である軍事指導者を付け加えれば、「国家」はできあがる。
つまり、農業社会における国家とは、徴税と管理の仕組みでしかない。いまから見るとほとんど不思議な感じがするが、庶民はそこには含まれていない。
この状況は、産業社会にはいると変わる。工場による大量生産という仕組みが、均質な労働力と、均質で広範な需要を必要とするからだ。その要請に応えて生まれるのが「国民」であり「国民国家」という仕組みだ、とわたしは考えている。彼らに(形式上)帝王に代わる権力が付与された。
形式論をいえば、王に代わる国民(それを代理する政治家)と官僚、それに宗教家に代わる知識人が、国民国家における三位一体ということになる。国民(政治家)が頼りなければ、官僚と知識人に比重がかかる。
官僚が(帝王の地位をのっとって)跋扈し、知識人(?)がそれを側面から手助けする。福島原発の事故が明らかにした「原子力村」の構造は、実は、各方面に広く蔓延した構造のように思える。
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2012年08月23日

「暴力」と化す

おカネ信号”の提唱――経済を記号論から見る――(57)
第4節 根源的問題G
(16)ことばもおカネも、しばしば「暴力」と化す
ことばはしばしば、人を(ほとんど)殺す。
信頼する人、愛する人のひとことに、ほとんど殺されたに等しいほどの打撃を受けた経験は、たいていの人が持っているはずだ。
おカネも、人を殺す。わずかなおカネが原因で、自殺したり、心中したり、強盗殺人事件を起こしたり、といったことはいくらでもある。
歴史書には、「債務奴隷」ということばがしばしば出てくる。具体的には、たとえば「自作農が借金して奴隷身分に落とされる」といったことを意味している。債務というおカネが、人々から自由を奪い、労働を強いる。
だいたい、わたしたちはなぜ働くのか。おカネのためではない、といいきれるか。
しかし、実は、もうひとつ重要な理由がある。
ことばが、欲しいのだ。他人から自らの働きや存在を(ことばで)認知してもらいたい。違うだろうか?
おカネを持っているものが、経済を支配し、人々を働かせる。しばしば、軍事力という暴力さえ「買って」しまう。知識や権力すら、おカネで動かす。そして、政治的権力もカネで買われる場合がある。
いや、政治的権力そのものが、大衆から巻きあげた「税」というおカネを存在基盤とする。そして、その再配分についての権限が、権力の根源だ。
このシステムを側面から支えるのが、宗教家だ。壮麗な儀式と重厚な「ことば」で、権力者をシステムの象徴(シンボル)に仕立て上げ、税の徴収を正当化する。そして、徴収された税の分配にあずかる。
かつての宗教家は、いまは、知識人と呼ばれている。要するに、「口舌の徒」だ。この一連の仕組みについては、次回にみる。
もう一度、根本に戻ると、おカネのもつ支配力の源泉は、その交換可能性だ。
わたしたちは、現実におカネの支配力にしょっちゅう振り回され、右往左往しながら暮らしている。右往左往するというそのことが、おカネの支配力をいっそう強めている。
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2012年08月22日

おカネ信号”の提唱――経済を記号論から見る――(56)

第4節 根源的問題G

 ことばも、おカネも、暴力の「平和的代置物」である。その話を続ける。
暴力を避けるのに、ことばかおカネかの一方だけでは足りないことがしばしばある。
そんなとき、ことばとおカネはしばしば、ひとつのセットとして機能する。
たとえば、もっとも大規模な暴力である戦争だ。
それを避けるために、あるいは、それを終わらせるために、交渉(ことば)による解決が図られる。ことばで足りなければ、おカネが登場する。
一般的にいって、暴力が行使されるのは、言語能力とおカネの支払能力が不足したときだ。
ことばとおカネ――この二つを行使することで、逃れられた紛争、逃れられた戦争は、世界中、数限りなくあるに違いない。しかし、歴史で記憶されるのは、紛争や戦争を「避けた」指導者ではない。それを導いた指導者である。
根本に戻ると、ことばもおカネも、暴力を抑止し、紛争を平和的に解決するうえで有効だ。力の根源的なかたちである暴力を抑え、暴力を代理する仕組みだ。
暴力の代理だから、ときに暴力そのモノに転化することもある。次は、そのことを見る。
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2012年08月21日

おカネ信号”の提唱――経済を記号論から見る――(55)


第4節 根源的問題F

(15)ことばもおカネも、「暴力」の平和的的大地物である
力のもっとも根源的なかたちは、暴力である。生命を奪ったり、身体を痛めつけたりする。
ことばもおカネも、そういう暴力を防止する、平和的手段という面がある。
1932年5月26日、陸軍士官候補生や右翼がクーデターを起こした。
そのとき、襲われた犬養毅首相が拳銃をもった青年将校らを前に呼び掛けたという。
「話せば分かる」
青年将校らは聞き入れず、犬養首相はその場で撃ち殺されたが、殺された犬養首相が最後のときに、暴力に対して頼ったのがことばだった。
これは象徴的なことだ。
ことばは、暴力に代わり得る。しかし、最終的には、暴力に勝てない。
市場原理とは、暴力をおカネに代行させるシステムである。
ある一つのモノを2人が欲しがっている場合を考えてみる。
手に入れるのは、おカネをより多く払った人である。彼にとっては、おカネは文字通り、「平和的に」欲望を達成する道具である。
他方、それが手に入らなかった人は、「おカネが足りなかったのだから仕方がない」とあきらめるしかない。彼にとっては、おカネは「平和的にあきらめる」手段だ。
 このように考えると、「平和」ということの意味も見えてくる。
 それは、紛争解決を、ことばかおカネにゆだねることだ。
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2012年08月20日

おカネ信号”の提唱――経済を記号論から見る――(54)

第4節 根源的問題E
 
一方が、おカネを出す。他方が、モノやサービス、あるいは労力を提供する――。
この一連の動きは、おカネが、(相手を動かして)モノやサービス、労働の提供を強要している、と考えることができる。ことばの場合の命令形に対応する。
実際のところ、おカネが、人を動かす力は、だれでも知っている。とても変なことだが、「おカネのために」わたしたちは働いている。
それどころではない。
おカネのもつ力は、一般に、ことばの力以上に大きい。
たとえば、お役人にことばでお願いしても相手にしてもらえないが、おカネを渡せば、無理も通る。もちろん、そんなことをすれば汚職の片棒を担ぐことになる。しかし、(ことばだけなら責任を問われないのに)おカネを渡すと犯罪になるという、そのこと自体が、おカネの拘束力の強さを示している。
ちょっとしたことばが人を喜ばせるように、わずかなおカネが深い感動をあたえることがある。
ほんとうに困ったとき、ごくわずかのおカネが、どんなに大きな喜びの源となるか。
その逆に、たいしたこともない無駄遣いで、深い後悔に苦しむこともある。
考えてみると、夫婦喧嘩や友人との仲たがいなどは、たいてい、ことばかおカネが原因だ。
おカネを持っているか、持っていないか――ごくわずかなおカネが原因で、人は泥棒にもなる。殺人も犯す。おカネが人を変えるのは、明白な事実だ。そのことは、毎日の新聞の社会面が証明している。
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2012年08月19日

おカネ信号”の提唱――経済を記号論から見る――(53)

第4節 根源的問題D

(15)ことばもおカネも、ヒトを動かす(変える)
ことばは、ヒトを動かす。
命令形は文字通り、人を動かすことを目的にしたことば遣いだ。
あるいは、「ちょっと寒くないかなあ?」とたずねるのは、疑問文の形をとっているが、実際は、「窓を閉めてほしい」という依頼を意味していることもある。
「困ったなあ」というほとんど独り言のようなことばが、相手に対する非難を意味し、相手を途方にくれさせることもある。だれかのちょっとしたことばで、死んでしまいたいと思うほどに落ち込んだ経験はだれにもあるはずだ。
あるいは、ちょっとしたほめことばやお礼のことば、予期しない愛のことばがどれほど人を喜ばせるか。ときには人を変えてしまうこともある。
また、ことばの世界では、詩歌や小説が、ときに深い感動をあたえる。
このように、ことばには相手に訴えかけ、相手を動かす働きがある。
おカネの場合はどうか。
似たような働きがあるのではないだろうか?
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2012年08月18日

おカネ信号”の提唱――経済を記号論から見る――(52)

第4節 根源的問題C

 ことばの基本的な性格として「線状的で、恣意的」ということがあった。
 おカネ信号の場合はどうであろうか?
まず、線状的性格は間違いない。多くのモノやサービスが、可能性としては、複数というより無数の価格を持つ。しかし、実際に取引をしようとすれば、同時に2つの価格で行うことはできない。(取引される)価格は、常に(無数にありうる価格の中の)一つである。そのような意味で、おカネ信号は線状的である
恣意性はどうか。
第1の「音の組み合わせと意味」の関係、つまり<無縁性>という局面との対応でみる。これは、おカネ信号に翻訳すると「モノやサービスとその価格とのあいだに必然的な関係はない」となる。いいかえれば、なんであれ、価格はいくらに設定されても構わない。当然過ぎるぐらい当然のことだ。だから、スーパーの特売もあるし、あるいは、「1円入札」などということも、行われる。「砂漠の水」はとてつもない高い値がつくだろうし、ただの川水もある。
第2の「観念の塊と音の塊」という局面はどうか。
まず、モノやサービスという「塊」は、どのようにでも区切ることができる。魚を1匹まるごと売ってもよいし、半身にして売ってもよいし、あるいは、切り身に分割して売ってもよい。そして、それぞれの「区切り」に対応して価格は自由に設定することができる。そうした区切り方も、商人の腕の見せ所であろう。
 ことばの場合の「音の組合せ」は、おカネ信号では「単位」に置き換えられるだろう。
 わたしたちは「円」という単位を用いる。アメリカでは「ドル」である。地中国では「元」だ。そのいずれをとっても、そうでなければならない必然性はまったくない。ことばにおける「音の組合せ」と同じように、おカネの単位が<因習的・恣意的>であることは、だれでも分かるだろう。
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2012年08月17日

おカネ信号”の提唱――経済を記号論から見る――(51)

第4節 根源的問題B
(14)「線状的で、恣意的」な性格
繰り返すが、ことばもおカネも、シンボル=代理物である。
 それはつまり、ことばもおカネも、本物ではないということだ。
本物は、ことばの場合、それが表現しているものごとや概念だ。同じ様に、おカネの場合の本物は、それが表現するモノやサービスであり、その差し当たりの「相対価値」がおカネ信号によって表現されているだけだ。
シンボルとは、そのように働くものなのだ。
情報理論では、シンボル化とは、特定のものや事象のもつ意味を、別のものや事象で表すことだ。「別のものや事象が音声」である場合、その音声、つまり、ことばがシンボルとなる。「おカネという乗り物」である場合、そこに乗っている数と単位によって示されたおカネ信号がシンボルとなる。
ところで、近代言語学は、ことばというシンボル(記号)について重大な特徴を指摘している。
「そして、記号(シーニエ)には線状的性格、恣意的性格がある、という。恣意性(arbitrary)には2つの意味がある。第一に、音の組み合わせとそのあらわす意味(概念)とのあいだにいかなる必然的なつながりもないという<無縁性>がある。(略)重要な点は第二に、言語記号は無形の観念の塊を<因習的・恣意的>に分割したものであり、これを音と結びつく範囲で区切って概念を作ってゆくことである。逆に音の無形の塊も、概念と結びつく範囲でいくつかの音声に区切られていく。こうして恣意的に区切られた両者の結びつきが混沌である世界に形を与え、ラングとなるのである」P。
線状的性格とは、時間的にリニア(2次関数的)な並びということだ。同時に2つの音を発することはできない。同時に2つの文字を書くことも読むことも、普通、できない。
恣意性については、@音の組み合わせとその表す意味<無縁性> およびA「無形の観念の塊」の区切り方と「音の無形の塊」の区切り方――の2つの関係について指摘される。
簡単にいえば、第一の恣意性つまり<無縁性>は、どんな音の組合せで、どんな意味をあらわすか――ということについて、必然的な関係は何もない、ということだ。「犬」という4本足の動物を表わすのに「イ」と「ヌ」という2つの音の組み合わせでなければならない理由はまったくない。
第二の恣意性についていえば、たとえば、黄色と緑のあいだには現実には無数の色がある。それを、黄色、黄緑、緑の3色に「分けてしまう」。しかし、その分け方は<因習的・恣意的>なことであり、必然的な理由はなにもない、実をいえば、どのように分けても構わないということを表わしている。
そしてまた、「キ・イ・ロ」「キ・ミ・ド・リ」「ミ・ド・リ」という音の組合せも、そうでなければならない理由はまったくない、ということを意味している。
おカネ信号の場合はどうか。
ことばの場合にあった「線状的で恣意的な」性格は指摘できるだろうか?

注PG・ムーナン、福井芳男・伊藤晃・丸山圭三郎訳『ソシュール』pH
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2012年08月16日

おカネ信号”の提唱――経済を記号論から見る――(50)

 第4節 根源的問題A

(13)言葉もおカネも、コミュニティ形成の根幹的なツールである
 あらためて説明するまでもないだろう。第1章第1節「社会の成り立ち」で提示した「命題1」の同義反復である。本論の出発点ということもできる。
 とはいえ、ことばとおカネの『根源的』位置づけの問題として、触れておかないわけにはいかない。
わたしたちは、ことばを用いて、知識や情報を交換する、
そしてまた、おカネを用いて、モノやサービスを交換する。
自分と他人、そして、人と人、社会(コミュニティ)と社会(コミュニティ)は、ことばとおカネのやりとりを通して成り立っている。
その意味で、ことばとおカネこそが、あらゆるコミュニティ、つまり人間社会を形成する上での根幹的なツールである。
人間の身体にたとえるなら、ことばはコミュニティの神経系統であり、おカネは筋肉と循環器、そして消化器系統を兼ねている。
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2012年08月15日

おカネ信号”の提唱――経済を記号論から見る――(49)

 第4節 根源的問題@
ことばは情報を、おカネは価値を、それぞれ表現し、保存し、そして、その交換を仲介する。これまで主として「表現」に関わるツールとして、ことばとおカネを比較してきた。  
本節では、表現ということにこだわらず、「ことばの根本」「おカネの根本」に戻って、両者を比較してみたい。第2節と同じ理由で項目ナンバーは、第2節に続ける。
(12) ことばもおカネもヒトだけのものである
地球上には何千万という種類の生物がいる。その中でことばを自由に操ることができるのは、ヒトだけである。「言語は人間を他の動物から区別する最も重要な指標である」(『文化人類学事典』弘文堂)。
おカネの利用もまた、「人間を他の動物から区別する最も重要な指標である」O。
これもまた、間違いようのない事実である。
何の根拠もなく、人と人の「信頼」だけに依拠して、人々の間を行き来するおカネ。そこに聖性を見、あるいは魔性を感じ取る考察は少なくない。

注O 今村仁司『貨幣とはなんだろうか』 ちくま新書 1994年
「人間が社会的存在であること(他者とともに生きるほかないこと)と、交換し貨幣を生み、また貨幣によって複雑になること(制度化する)は、同じことである。はしょっていえば、人間であることと、貨幣が存在することは、同一の事柄である。人間が人間である限り、必ず貨幣は発生する。なぜなら、人間の社会は交換の束であるから」(p68)と今村は記す。
多くの動物の中でヒトだけが発見した「死の観念」をもとに、「素材的貨幣は、根源の力である死の媒介を抑えるために、死の表徴と自然的運命を物の方へずらして、魔的な力を制度へと閉じ込める」(p109)とする今村の発想は、わたしには難解なのだが、それでも興味深い。
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2012年08月14日

おカネ信号”の提唱――経済を記号論から見る――(48)

第3節  おカネからことばをみるD

(11)「悪貨が良貨を駆逐する」
これは「おカネ信号」ではなく、メディアつまり「おカネ信号」の乗り物としてのおカネにかかわる問題だ。
質のよい貨幣と質の劣る貨幣が同時にあるとする。
だれでも上質の貨幣はポケットにしまっておいて、質の劣る貨幣から使うだろう。そのため、市場から上質の貨幣は姿を消す。そして、質の劣る貨幣だけが出回る。
発見者の名をとって、グレシャムの法則とよばれる。
ことばの場合はどうか。ことばのインパクト(価値)が、世間に広がり流布するにつれて低下することはすでにみた。だから、新しいことばを生み出さなければならない。そこで「悪貨が良貨を駆逐する」か。
上記(9)でもみたことだが、一般的にいって、少なくとも強調語は、次第に過激になる傾向がある。たとえば、週刊誌の見出しがそうだ。
「超キモチいい」「ナウい」「エロい」――旧聞しか上げられないのは残念だが、若者ことばも、わたしのように歳をとってくると、「一方であいまいに、他方で過激な方向に」変化している感じがある。
嘆かわしいとも思うが、それが変化の鉄則なのかもしれない。
そのように考えると、「悪貨が良貨を駆逐する」法則には、もうひとつの、一層大きな意味が隠されているのかもしれない。
おカネ信号の「乗り物」は、米、衣服、食物、家畜などの物品貨幣から金属貨幣に、そして、兌換紙幣から不換紙幣、さらには2進法の電気信号へと移ってきた。
それは、あいまいで捕らえにくく、同時に、過激(な額)を許容する方向への移行だといえよう。それが、「良貨が駆逐され、しだいに、悪貨がはびこることになった」ということでない、とだれがいえるだろう。
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2012年08月13日

おカネ信号”の提唱――経済を記号論から見る――(47)

第3節  おカネからことばをみるC

(10)「過剰に反応する」特性
「儲かると見れば、集まる」、「危ないと見れば、逃げる」――おカネについての、ごく自然な動きだ。
ただし、ここにひとつ問題がある。集散が常に過剰であることだ。だから、こう書いた方が現実に近い。
おカネは、「儲かると見れば、(過剰に)集まる」、「危ないと見れば、(過剰に)逃げる」。
 繰り返される景気変動も、この「過剰な反応」というおカネの特性によっている、と見ることができる。
昨今、しばしば国家財政を脅かし、国際政治を動かす「市場の声」も、実体は、このおカネの「過剰な反応」であるように思える。
原因は、(臆病な)投資家たちの群衆心理だ。
ケインズのいうように、おカネの動きは美人投票に似ている。自分のほんとうの判断は問題にならない。「(他人である)みんなが美人と思いそうな」女性に票は集まる。
だれもが、「みんながしそうなこと」をしてしまうのだ。
その結果、海に向かってひた走り、次々におぼれてゆくネズミの大群と同じように、おカネもときに、破滅に向かってひた走ることがある。
ことばの場合はどうか?
たとえば、流行語大賞。
「まるきん、まるび(1984年)」「オバタリアン(1989年)」「毒まんじゅう(2003年)」……だれがいま使うだろう。
数年で忘れられるベストセラー、キャッチコピー、いまやウソの羅列とばれた選挙用マニフェスト、さまざまな流行……。
潮の寄せるように大騒ぎされ、やがて、潮の引くように消えてゆく。
「ゲルマン民族の優越」で凝り固まったヒトラーや、「忠君愛国」が席巻した軍国日本を思い出してもよい。
歴史は、「ことばの(過剰な)集積」と、それが生みだした悲劇で満ち満ちている。
「はやるとみれば、(過剰に)集まる)
「すたれるとみれば、(過剰に)退いてゆく」
――おカネについての現実は、そのまま、ことばについての現実でもある。
どちらも「過剰に集散する」特性をもっている。
そして、あとに大小さまざまな悲劇が残る。
おカネとことばは、ヒトという動物が発明した、途方もなく有効なコミュニケーション手段である。
だが、その便利さには、代償がある。
「過剰な反応」が引き起こす、大小さまざまな悲劇から、わたしたちは逃れることができない。
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2012年08月12日

おカネ信号”の提唱――経済を記号論から見る――(46)

第3節  おカネからことばをみるB

ことばも、まちがいなく増減している。
しばしば「うわさはうわさを呼ぶ」。
農作物汚染の風評被害は、その代表例だ。「食べてはいけない」理由はなくとも、売れ行き低下という被害は現実だ。
ちかごろよく聞く、ネット上の「炎上」も、その類だろう。
印刷術(本や雑誌、新聞など)、電波による通信(無線、ラジオ、テレビなど)、電気通信(電話、インターネットなど)といった、ことばの大規模な増幅・複製装置もある。
その一方で、ことばは急速に陳腐化する。つまり、価値が「減少する」。
ことばのインパクト(価値)は、世間に広がり流布すればするほど、失われてゆく。だから、同じ内容に対しても、新しいことばが次々に生み出される。たとえば、「大売出し」ではだれも振り向かない。「激安」「超廉売」など、次々に過激になる。
ただし、ここで注意しておかなければならないことがある。おカネやことばが「増減」するのはなぜか?
たとえば銀行預金が増大するのは、決して「預けていた」からではない。他人に貸して、他人によって使われることによる。
同じように、ことばの場合も、価値を増すのは、流通と交換によっている。ことばが他人と交換され、世間に流通することで、互いの知性を喚起し、ぐいぐいと形を変え、アメーバーのように自己増殖する。それが会話だ。
いうまでもないが、流通と交換が常に情報の価値を増やすとは限らない。人から人に伝えられているうちに、ことばや内容が変形されるのは、ごく普通のことだ。小さな誤解が、いつの間にか、大きなウソに代わっていることも少なくない。会議で話し合ったばかりに、情報が混迷し袋小路に入ってしまうこともよくある。
ことば数という「量」では増殖しながら、その一方で、その情報の価値が低下するのは普通のことだ。
おカネもことばも不変ではない。生まれ、動き、変化し、増え、減り、そして、死ぬ。
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2012年08月11日

おカネ信号”の提唱――経済を記号論から見る――(45)

第3節  おカネからことばをみるA

(9)おカネも言葉も、時間の経過とともに、増殖したり減価したりする。
前項で説明したように、おカネの価値保存機能のことは、高校の教科書にも書いてある。大学入試にも出る。
しかし、実際はあやしいものだ。
現実には、時間の経過とともに、おカネの価値は増減する。
たとえば利子だ。利息がついて増えるということがなければ、(普通には)銀行におカネを預ける人はいない。
あるいは、投資は増えることもあるが、減ることもある。ギャンブルはたいていマイナスになるが、ときに大きなプラスをもたらす。
いや、そういうことではない。価値保存機能というのは、「紙幣」だけの議論だという反論もありそうだ。
しかし、注意して欲しい。おカネの表す価値は、常に相対価値だ。1万円札が1万円であるとしても、その1万円という「おカネ信号」の価値は、モノやサービスの価値との対比で絶えず変動している。
デフレで物価が下がれば、おカネ信号はその相対価値を増大する。物価が上がれば、おカネ信号の価値は目減りする。
ことばは、どうか?
やはり、増減しているのではないか?
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2012年08月10日

おカネ信号”の提唱――経済を記号論から見る――(44)

第3節  おカネからことばをみる@

ヤーコブソンの言語活動の要素からおカネをみた第1節、および「表現」を扱った第2節では、どちらかといえばことばの特徴を手がかりにおカネと比較してきた。
本節では、その逆に、おカネの特徴を手がかりに、ことばの特性を照射てみたい。
おカネについていわれるさまざまな特性は、ことばについても成り立つであろうか?
おカネとことばの対比の継続という意味で、項目番号は第2節に続ける。
(8)おカネもことばも、保存能力がある
高校教科書に書いてあるところでは、おカネには3つの主要な機能がある。交換仲介機能、価値保存機能、価値表示機能の3つである。
ただし、ここでいうおカネは、正確には、おカネ信号の「乗り物」のひとつである紙幣と硬貨を意味している。
価値保存機能として説明されるのは、「おカネは老朽化しない」ということである。魚は腐る。動産は消耗し、陳腐化する。不動産は老朽化する。そして、価値も下がる。しかし、1万円札はどんなに傷んでも1万円の価値に変化はない。
ことばはどうか。
「情報」を保存する、といえるだろう。知識も経験も、「情報」として、多くの場合、ことばのかたちで保存される。
しかし、ことばの場合もおカネの場合も、保存には、ちょっとしたトリックがある。
ことばもおカネも「シンボル=代理物」であることを考えると当然のことだが、保存されるのは、本体ではない。常に、その代理物だ。
おカネのかたちで保存されるのは、実際の価値ではない。価値あるモノやサービスに交換できる「可能性」だ。
ことばの場合も、まったく同様に、保存されるのは、実際の知識や経験そのものではない。そうした情報を代理する音声や文字という信号だ。
保存されたおカネがほんとうに意味を持つのは、そのおカネの持つ可能性が実現されたときだ。おカネの代償に手に入れたモノやサービスにほんとうの価値がある。
同じように、ことばが情報として意味を持つのは、その音声や文字(信号)の内容を理解したときだ。
繰り返しになるが、おカネやことばのかたちで保存されているのは、ほんものの価値と交換できる可能性、そしてまた、情報として翻訳できる可能性だ。
可能性だから、実現しないこともある。前にも触れたが、多額のおカネを通帳に入れたまま死んでしまう乞食がもっていたのは、文字通り、可能性でしかない。
ことばの場合も、ことばのかたちで保存された情報は、意味が理解されなければ、ただの無意味な記号の集まりである。
どんなに深い内容であっても、外国語で書かれた本は、その言語が分からない人には落書きだ。古代文字は、解読者が現れるまでは、意味不明の記号でしかない。
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2012年08月09日

おカネ信号”の提唱――経済を記号論から見る――(43)

第2節 表現手段としてみた、ことばとおカネM

(7)「世界を広げ」、「牢獄に閉じ込める」
 ことばは、わたしたちの世界を広げ、そして、私たちを牢獄に閉じ込める。
赤ちゃんがある日「マンマ」という。
それから数日して「ママ」という。
このように少しずつでもことばを増やすことが、そのまま「世界を広げる」ことである。
幼少時に限らない。人の一生はことばを増やしてゆく過程であり、それは、そのまま世界を広げてゆく過程でもある。
外国語の学習も、異なる文化体系に導くという意味で、わたしたちの世界を広げる。
それと同時に、わたしたちはことばの制約のなかでしか、ものを考えることができない。前にも触れたが、ことばのないことは思いつくことができない。
それどころか、ことばを使わなければ、ものを考えることもできない。
その意味で、わたしたちは、ことばの奴隷であり、ことばという牢獄を絶対に抜け出すことのできない囚人だ。
おカネはどうか。
おカネのない世界を考えてみる。
アダム・スミスがいっているように、物々交換の世界は「欲望の二重の一致」が求められる。
おカネは、そのような物々交換に伴う不便を解消した。おカネの発明によって、わたしたち人類の世界が広がったのは間違いない。
個人としてみても、おカネは「世界を広げる」。
世の中には、おカネがないとできないが、おカネさえあればできることが、ごまんとある。おカネがなくては、持てないモノ、サービス――それを、おカネは提供する。
そして、おカネはわたしたちを「牢獄に閉じ込める」。
昼食に何を食べるか。休暇をどう過ごすか。誕生日のお祝いをどうするか。だれが、財布に相談しないで決められるだろう。
否定したい気持がどんなに強くても、冷静に考えるなら、わたしたちの毎日は「おカネの奴隷」以外のなにものでもない。
ことばもおカネも、「世界を広げる」。そして、「わたしたちを牢獄に閉じ込める」。

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