2012年07月31日

おカネ信号”の提唱――経済を記号論から見る――(35)

第2節 表現手段としてみた、ことばとおカネE

(3)存在しても存在しない、存在しなくても存在する
ことばについていえば、わたしたちはことばを知らないモノ、ことばのないものは、認識できない。
たとえば民主主義ということばを、いま、わたしたちは知っている。
しかし、200年前の日本人は、そんなことばは知らない。民主主義という考えそのものが、当時の日本に存在しなかったのだ。
「江戸幕府を改革して、民主化しよう」などと考えることは、当時の人々には不可能だった。
では、民主主義という政治の仕組みは「現代」限定か?
そんなことはない。民主的な制度は、いつの時代にも、あり得るものだ。
たとえばわたしたちはいま、「民主化」を基軸にして、1000年前の社会を論じることもできる。
ないのは、内容ではない。「ことば」だ。
同様のことは、電気とかインターネットとか、ファミレスとか、あるいは、原子とか政府とか、ニートとか性同一性障害などについてもいえる。
存在しないものには、ことばがない。そして、ことばのないものは、存在しても存在しない。
逆にことばがあれば、存在しないものも存在する。
天国、地獄、神様、仏様、女神……実在するかしないか、だれも知らない。少なくとも実証はされていない。
しかし、ことばはある。少なくともことばとして「存在する」。
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2012年07月30日

おカネ信号”の提唱――経済を記号論から見る――(34)

第2節 表現手段としてみた、ことばとおカネD

現実の世の中には、「おカネ信号で表現できないもの」が無数に存在する。
たとえば、愛情に値段がつけられるか。あなたの彼女に対する愛は、おカネでいえば、いったいいくらぐらいのものか。
親切、憎悪、迷惑、生命、苦痛なども、多分、値段はつけられない。
 それだのに、現実の生活では、そういう「数値にできないもの」に値段をつけなければならないことが、しばしばある。
お世話になれば、原則としてお礼は差し上げなければならない。
迷惑をかけたら、「お詫び」として誠意を示さなければならない。
実際のところ、誠意の表現は多くの場合、ことばとおカネの2つのチャンネルを必要とする。
「お礼」や「お詫び」をことばで示し、同時におカネを渡す。そのいずれが欠けても不完全だ。
たとえば、暴力団が「誠意を示せ」といったら、おカネを払えということだし、国際関係などの場合も、もし不当な行為で損害を与えて「謝罪しろ」といわれたら、最終的には、おカネを払え、ということだ。
そういう場合、誠意とはほど遠い、交渉事項になってしまう。
ことばの場合と同じように、おカネで価値を表せるものは、世界の現実のごく一部であり、おカネによる価値表示は極めて不十分だ。
そういうことを知りながら、わたしたちはおカネによって表示された商品に囲まれ、おカネを媒介にして、幻想の等価交換を繰り返している。
ことばを通して見ても、おカネを通して見ても、わたしたちは、不完全にしか認識できない世界で、危ないバランスを保ちながら生きている。
そういう生活の現実がある。
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2012年07月29日

おカネ信号”の提唱――経済を記号論から見る――(33)

第2節 表現手段としてみた、ことばとおカネC

おカネの場合はどうか。おカネ信号は、モノやサービスの価値をきちんと表示するのか。
そんなことは、あり得ない。それが、常識だ。
おカネによる価値表示のいい加減さは、言葉による表現が十分とはいえないのとまったく同様である。
考えてみるとよい。自分はどれだけの給与をもらっているか。
それは、他の人々の給与や物価と比較して、完全に正しく適切な額か。
ある商品にある価格がつけられる。
それは、その商品の相対的な価値を正しく表しているか。
近代経済学は、モノやサービスの需要と供給に応じて「正当な価格」が決まると教える。
これがなければ、近代経済学そのものが崩れてしまう基本的な考えである。
しかし、この法則が成立するためには、市場についての厳密な条件が満たされることが必要だK。
そして、現実にそのような条件を満たす市場がほとんど存在しない以上、価格は一般にせいぜい、そのときどきの社会情勢と払う側と受け取る側との交渉と妥協を通して生み出された仮の数字に過ぎない、と考えるべきであろう。
それ以上に重大な問題がある。
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2012年07月28日

おカネ信号”の提唱――経済を記号論から見る――(32)

第2節 表現手段としてみたこことばとおカネB

新聞やテレビのニュースでしばしば「客観報道」がいわれる。しかし、それはいわば努力目標でしかない。
客観的な表現ということが、はなから不可能なことだからだ。
そのニュースが選ばれたこと自体、報道する側の主観が働いている。
そのような意味で、「ことばは本来的にウソをつく」。
ことばは常に「真実の翻訳」であって、真実そのものではない。
翻訳だから、それを真実に戻そうとするとき、だれもが自分の知識と経験の範囲内でしか戻せない。
ひとつの同一の情報に接して、一人ひとりが別々の真実を思い浮かべる。
ことばで表せることは、世界の現実のごく一部でしかない。
また、ことばによる表現は極めて不十分だ。
それでも、我々は、ことばによって仮想された世界しか認識できないし、そういう不十分な方法でしか意見を交換できない。
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2012年07月25日

おカネ信号”の提唱――経済を記号論から見る――(31)

第2節 表現手段としてみたことばとおカネA
 
(2) ことばによる表現も、おカネによる価値表示も、明白に不完全だ
ことばで表現できないモノやことがら、あるいは、おカネで価値を表示できないモノやサービスが、現実の世界には、数限りなく存在する。
というより、この世に存在する、あるいは存在しないすべてのことがらやモノ、つまり情報が、ことばによっても、おカネによっても、完全に、正しく表現されることはあり得ない。
ことばによる表現は、常に、あいまいで不完全だ。
何かの体験、あるいは、一枚の絵、あるいは、一場の景色をどう表現できるか。
「感動した」とか「美しかった」とかいっても、相手には、どんなイメージも浮かばない。
ことばで正確に表現しようとすれば、何時間もかけて話し続けたり、何万ページも書き続けたりすることが必要だ。
それだけの努力をしても、完全で正確な表現は不可能だ。
そして、そんな長ったらしい説明には、だれも付き合わない。
ことばによる表現は、常に選択的である。無数の限りなく広がる表現の可能性の中から、相手に伝えたいと考えるごく一部を選び取って、伝える。
何を選ぶかは、話し手の判断による。
その意味で、ことばによる表現は、常に主観的である。
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2012年07月24日

おカネ信号”の提唱――経済を記号論から見る――(30)

第2節 表現手段としてみたことばとおカネ@

ヤーコブソンを離れて別の角度から、ことばとおカネを比較してみる。
まず、次に見るように、ことばにしろ、おカネにしろ、いずれも表現にかかわる。
「表現手段」という観点から、両者を比較してみたい。
(1) ことばもおカネも、表現にかかわる
 ことばは頭の中に浮かんだ観念(想念)を表現し、おカネはモノやサービスの相対価値を表現する。
それぞれ対象は違うが、いずれも、同じように「表現」という機能にかかわる。
「それ自体てはない、何かを表現する」ということは、いわば、記号あるいはシンボルの特性である。
そして、わたしたちは記号(シンボル)のこの特性を利用することで、意思を伝え合い、あるいは、価値について相互に了解し合うことができる。
まことに、記号(シンボル)のこの特性こそが、わたしたちが社会生活を営んでゆくうえで、決定的に重要な要であることを理解する必要があるだろう。
しかし、ここで、絶対に忘れてはならない、とても大切なことがある。
それを、次に指摘しておく。
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2012年07月23日

おカネ信号”の提唱――経済を記号論から見る――(29)

 第2章 ことばとおカネを比較する
第1節 言語活動の6つの構成要因D

おカネ信号の受け渡しにおいても、接触とは、同一のコード(おカネ信号)の発信と受信を意味する。
すぐ思い浮かぶのは、手から手へという接触である。
商店でモノを買えば、おカネを払う。正確には、おカネという「信号の乗り物」が渡される。
その信号の意味を、払い手と受け取り手の双方が認識していなければならない。
もちろん、ことばの場合と同じように、直接には顔を会わせない接触もある。そうでなければ、外国貿易など不可能だし、身近なところでは、ATMを使った送金もできないことになる。
それでも、どんな「乗り物」を使うにしろ、あるいは、どんなに抽象的なかたちをとろうと、おカネの払い手と受け手のあいだになんらかの接触が必要なこと、また、その「おカネ信号」の意味についての双方の了解がなければ、受け渡しは成立しない。
両者がもし接触しなければ、払われたおカネは宙を舞って行き場を失い、あるいは第3者に収得されることになる。
また、情報の場合と同じように、受取側に「こころの準備」が必要なのも、当たり前のことだ。もし受取側がそのおカネ信号の受取を拒否すれば、取引は成立しない。
接触のチャンネルはさまざまだ。
最も一般的なのは、先に触れた、同一の空間で、「手と手」で接触する場合だ。一方がおカネを渡し、他方がモノ(サービス)を渡す、という「交換」の形をとる。
距離が離れていれば、小切手、為替振り替え、現金封筒による送金、電子マネー、電子操作などによる支払いが行われる。

以上、ロマーン・ヤーコブソンがあげた、言語活動を成り立たせる6つの要素について、おカネ信号を対比してみた。
これらの6要素が、それぞれにおカネ信号を用いた交換の場合も、それを成り立たせるための要因としても不可欠であることは明らかであろう。
ことばとおカネ――両者は、驚くほど類似している。
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2012年07月22日

おカネ信号”の提唱――経済を記号論から見る――(28)

 第2章 ことばとおカネを比較する
第1節 言語活動の6つの構成要因C

残された要因である(カ)接触(contact)はどうか。
ヤーコブソンによると、これは「発信者と受信者との間の物理的回路・心理的連結で、両者をして伝達を開始し、持続することを可能にするもの」である。
物理的回路とは、情報理論でいうチャンネルと解することができる。
たとえば、いっしょの部屋にいて、相手の話す声を聞く。この場合は、一つの部屋という空間がチャンネルになる。
いうまでもないが、直接、顔と顔を合わせなくても接触はできる。
電話、ファクス、手紙、ケータイ、ラジオ、テレビなどさまざまなチャンネルがある。
いいかえれば、それがメディア(情報伝達手段)だ。
そして、どのチャンネルあるいはメディアを使うにしろ、受信者が、そこに盛られたコードをキャッチしないことには、ことばによるコミュニケーションは成り立たない。
言語活動における接触とは、同一のコードの発信と受信を意味する。
ヤーコブソンが接触のもう一つの要素としてあげる心理的連結は、受信者の側の「通信への意思」と理解できる。
受信者が「聞きたくない」情報は伝わらない。
おカネ信号の受け渡しの場合はどうであろうか。

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2012年07月20日

おカネ信号”の提唱――経済を記号論から見る――(27)

 第2章 ことばとおカネを比較する
第1節 言語活動の6つの構成要因B

本論ですでに提起した命題2が、まさに、このメッセージ、および、コンテキストとコードの関係をうたっている。
支払に用いる「おカネ信号」がメッセージであり、それは「モノやサービスの交換価値」であるコンテキストと、「数と単位の組み合わせ」であるコードからなる。
ヤーコブソンは、メッセージについて「受信者がとらえることのできるものでなければならず、ことばの形をとっているか、あるいは言語化され得るものである」と制約している。
この文章を、主題を「おカネ信号」に入れ替えてみる。
「(渡されるおカネ信号は)その価値を受け手が理解でき、かつおカネの形をとっているか、あるいは金銭化されうるものである」となる。
受け手の理解できない「おカネ信号」で支払ができないのは、明白だ。
渡すのが、おカネの形をとるか、あるいは、おカネに替えられる何かでなければならない、というのも、そのまま成立する。
たとえば、何かの代償に感謝状を受け取っても、それは、おカネに替えられないとすると、経済的には紙クズだ。
一般に、おカネ信号の単位や「乗り物」についての考えが、払いてと受け手でまったく異なっている場合、取引は成立しない。
たとえば、たいていの日本人が、ヤップ島の石貨で支払うといわれても、受取を拒否するだろう。
ただし、厳密にみてゆくなら、会話が成立する場合がある。通訳が存在すればよい。
そして、興味深いことに、おカネの場合も同じ役割を果たす人が存在する。為替ディーラーという仲介者である。
「おカネ信号」のコードが仮に払い手と受け手とでまったく異なっているとしても、そのあいだにディーラーがいれば取引は可能になる。
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2012年07月19日

おカネ信号”の提唱――経済を記号論から見る――(26)

 第2章 ことばとおカネを比較する
第1節 言語活動の6つの構成要因A

言語活動は、発信者と受信者がいる、というだけでは成り立たない。二人が並んで立っていても、それだけで関係性が存在することにならないからだ。
発信者から受信者に伝えられる(ウ)メッセージ(message)も必要である。
ヤーコブソンは、メッセージの構成要素として(エ)コンテキストと(オ)コードをあげる。その意味では、メッセージとコンテキスト、コードの3者は一体である。
メッセージはいわば「ことば」、あるいは、「文章」といってもよいだろう。
これは、ふたつの要素からなる。
コンテキスト、つまり、伝えられる内容と、コードつまり、信号のふたつである。
「イ・ヌ」という2つの音の組み合わせ(コード)が、『犬』という意味(コンテキスト)を伝える。
両者がそろって、メッセージとなる。
ヤーコブソンは、メッセージについて「受信者がとらえることのできるものでなければならず、ことばの形をとっているか、あるいは言語化され得るものである」と制約条件をつけている。
受信者に理解できず、あるいは、ことばにならないようなことは言語活動の対象になり得ない、ということである。
コードについても、ヤーコブソンは「これは発信者と受信者に全面的に、あるいは少なくとも部分的に共通するものでなければならない」と制約する。
おカネ信号の場合はどうか。
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2012年07月18日

おカネ信号”の提唱――経済を記号論から見る――(25)

 第2章 ことばとおカネを比較する
これまで3つの命題で論じてきたことに従うなら、おカネは、経済の領域におけるメディアであり、その根幹に「おカネ信号」がある。
そして、この構造は、情報の領域におけるメディアとことば(音声信号)の関係そのものである。
そうであれば、領域は異なっても、おカネ信号とことばは相似た機序で作用すると考えることができる。
実際にそのようになっているかどうか?
本章では、おカネとことばをいくつかの方法で比較対照することで、上記の仮説を検証してみる。

第1節 言語活動の6つの構成要因@
まず取り上げたいのは、構造主義の一翼を担った言語学者のロマーン・ヤーコブソンによる、言語活動についての考えである。
ヤーコブソンは、言語活動が展開されるための基本的な構成要因として以下の6点を指摘しているJ。
(ア) 発信者(addresser)
(イ) 受信者(addressee)
(ウ) メッセ―ジ(message)
(エ) コンテキスト(context)
(オ) コード(code)
(カ) 接触(contact)
これらの6つの要素は、おカネ信号の関わる活動についても当てはまるであろうか。
(ア)発信者と(イ)受信者からみてみよう。
言語活動における発信者と受信者とは、言語情報(信号)を発信する者と受信する者を意味する。これを経済活動に移すなら、それぞれ、おカネ(信号)の払い手と受け取り手に相当する、と考えることができよう。
その両者を必要とするというそのこと自体が、命題3で示した「関係性」である。そして、この関係性こそが、言語活動においても、経済的活動においても、根幹的条件であることは言を待たないだろう。
「人はひとりでは生きられない」
この明白な真理が意味するのは、情報活動であれ、経済活動であれ、人は「信号」を交換する相手が必要だということである。


注J ロマーン・ヤーコブソン、田村すず子・村崎恭子・長嶋善郎・中野恭子訳『一般言語学』みすず書房 1993年 p187〜188
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2012年07月16日

おカネ信号”の提唱――経済を記号論から見る――(24)

第3節「おカネ信号」の発生と価格の決定A

物財には、いわゆるおカネも含まれる。
あなたには莫大な銀行預金がある。タンス預金もある。
しかし、それはただ預金という数値であり、紙幣という紙片であるに過ぎない。
だが、それで何かを購入しようと思ったとき、あるいは、それを投資に回して利益をあげたいと考えたとき、銀行のディスクにある数字や、紙幣におカネ信号が乗り移る。
ただし、この場合は、その価格は任意には決められない。
1000円札は、いつまでたっても1000円だ。任意に価格が変えられるのは、その交換の相手方のモノやサービスの側だ。
これが、おカネの価値基準といわれる機能である。
とはいえ、仮に相手方のモノやサービスの価格が一定だと考えるなら、取引ごとにおカネの価格が変化していることになる。
どちらが変化するかの議論は、どちらから見るかという見方の問題に過ぎない。
よく知られるように、全般的な物価の上昇(インフレ)は、別の見方をすれば、おカネの価値の減少である。
同様に、全般的な物価の下落(デフレ)は、別の見方をすれば、おカネの価値の増大である。

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2012年07月15日

おカネ信号”の提唱――経済を記号論から見る――(23)

第2節 「おカネ信号」の発生と価格の決定@

命題3 「おカネ信号」は、物財やサービス(労働)の所有者が交換(売却)を意図したときに発生し、交換意思を失ったとき消滅する。ただし、常に他者との合意が必要であり、そのような関係性の中でのみ存在する。合意(価格)の形成は期待と駆け引き(バーゲニング)による。

あなたが住んでいる家がある。
それだけなら、住居以外のなにものでもない。
しかし、あなたが売却を意図したとたんに、「おカネ信号」の乗り物になる。それがつまり、「数と単位」で構成された価格がつくということだ。
ちょっとくたびれているが、グッチの外套がある。
愛用の外套というだけだ。
しかし、これもまたフリマで売りだそうと思いたったとたんに、「おカネ信号」が乗ってくる。価格が決まる。
ただし、価格となる数値は、あなたが勝手につけたというだけでは、ただの雑音だ。
単数または複数の相手方との合意が必要である。
それを仮に関係性と呼ぶなら、おカネ信号は、そのような他者との関係性の中にのみ存在する。
売り手と買い手は一般により多くの利益と交換の実現への期待を抱いている。そこで駆け引き(バーゲニング)が行われ、ある価格に落ち着く。
この価格の「落ち着きどころ」が、近代経済学でいう「需要供給の法則」による均衡価格である。
しかし、均衡価格そのものがバーゲニングを前提にしていることを見逃してはならない。
現実には、価格は自然法則のようにして決まるわけではない。
売り手と買い手のバーゲニングによって、どこにでも落ち着くことができる。それが、わたしたちが日常的に経験している事実だ。
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2012年07月14日

おカネ信号”の提唱――経済を記号論から見る――(22)

第2節 おカネの本体H

念のために、「おカネ」と「おカネ信号」の関係を整理しておく。
この関係は、言語学でいう「有徴」と「無徴」の概念を援用するとわかりやすい。
たとえば英語でmanとwomanという対立関係を考えると、いずれもその記号に<人間>という意味を含むが、manの方は性に関してそれ以上に<男性>あるいは<女性>という特徴の指定を受けない。
他方、womanは<人間>という特徴に加えてさらに<女性>という特徴も指定しておかなくてはならない。このような場合、manは性に関して「無徴」であり、womanは「有徴」である、といわれるI。
同じように、「おカネ」は無徴であり、「おカネ信号」は有徴である。
すなわち、「おカネ」は、世間で流通しているおカネ信号のあらゆる乗り物、およびその総体、そしておカネ信号も含めて、何の制約もなく使用される。
それに対して、「おカネ信号」は、上述したように、「モノやサービスの価値」を表す「数値と限定された単位の組み合わせ」と限定されている。
いいかえれば、「おカネ」という場合、あらゆるおカネの乗り物および「おカネ信号」を含む。
これに対し、「おカネ信号」は、その乗り物に「乗っている」「数値と単位の組み合わせ」だけを意味する。音声信号が具体的に発現されるのは、常に、なんらかの特定された音声であるように、おカネ信号もまた、常に、個別具体的な「数値と単位の組み合わせ」すなわち価格として発現される。

注I  池上嘉彦『記号論への招待』p.117
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2012年07月13日

おカネ信号”の提唱――経済を記号論から見る――(21)

第2節 おカネの本体G

ここでいうシニフィエとシニフィアンの組み合わせは、そのまま、命題2の「モノやサービスの交換価値」と「数値と特定された単位の組み合わせ」に対比できる。
これは、実をいえば、シンボル(記号)のもつ一般的特性だ。
すなわち、シンボルとは、たとえば、ことばの場合に、「イ・ヌ」という音声の組み合わせが動物の「イヌ」という存在を示すために用いられるように、別の何かを示すために用いる何か(記号)ということである。
そして、この言い回しは、そのまま、ここで考察したおカネ信号に適用できる。すなわち、おカネ信号とした「数値と特定された単位の組み合わせ」は、「モノやサービスの交換価値」を示すための記号である、と。
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2012年07月12日

フェルディナン・ド・ソシュールの記号理論

おカネ信号”の提唱――経済を記号論から見る――(20)
第2節 おカネの本体F

さて、ここまできて、命題2で定義した、経済におけるおカネ信号が、情報の領域におけることばに極似していることに気づかないわけにはいかないだろう。そのことを、見ておきたい。
近代言語学の祖といわれるフェルディナン・ド・ソシュールの記号理論を借りる。
「言語の記号(シーニエ)とは、<概念>と<聴覚映像>があたかも1枚の紙の表裏の如く一体となったものであり、前者は記号内容(シニフィエ、その記号の持つ意味・価値)と呼ばれ、後者は記号表現(シニフィアン、このおかげで前者が表現されるもの)と呼ばれている」H。

注H シーニエとシニフィエ、シニフィアンの関係は、言語学、記号学関係の著作には必ず出てくる基本的事項だ。ここでは、下記から引用した。
 G・ムーナン、福井芳男・伊藤晃・丸山圭三郎訳『ソシュール』pH
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2012年07月11日

おカネ信号”の提唱――経済を記号論から見る――(19)

第2節 おカネの本体E

二点ほど確認しておきたい。
第一に、「おカネ信号」は、「乗り物」で用いられる単位を援用してはいるが、あくまで抽象的なシンボル(記号)である。
決して乗り物そのものを表しているのではない。
一例をあげれば、「加賀100万石」というときの「100万石」が表わすのは、「100万石のコメ」ではない。それだけの生産力をもつ加賀藩の国力である。
第二に、「おカネ信号」は、個別・具体的な「価格」を意味しているのではない。
価格が、上記で定義した「モノやサービスの価値」を表す、「数値と特定された単位の組み合わせ」であるのは、間違いない。
しかし、価格は、常に個別的である。個別のサービス、個別の物財について語られる。
それに対して、ここで提起した「おカネ信号」は、そうした個別の価格の総体である。その点でも、抽象的なシンボル(記号)であって、それ以外のなにものでもない。
ただし、その具体的な表現は、「価格」そのものという形をとる。
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2012年07月10日

おカネ信号”の提唱――経済を記号論から見る――(18)

第2節 おカネの本体D

しかし、「数値と特定された単位の組み合わせ」というだけでは、おカネにはならない。
メディアが情報を伝えるように、「数値と特定された単位の組み合わせ」であるおカネもまた、伝えるべきことがらが必要になる。
そこで思い当たるのは価値である。100円、1万ドル、真ん中に穴のあいた上質の大きな石1個といった「数字と単位の組み合わせ」が、モノやサービスの価値以外のなにを伝えているといえるだろう。
ただし、いうまでもないことだが、そこで伝えられるのは絶対的な価値ではない。そんなことは、はなから不可能だ。
伝えているのが、他の多くのモノやサービスと比較したときの相対的な価値でしかない点は確認しておく。それさえ確定すれば、交換は可能だ。
ここで定義した、「モノやサービスの価値」を表す、「数値と特定された単位の組み合わせ」――それが、わたしの提起する「おカネ信号」である。
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2012年07月09日

おカネ信号”の提唱――経済を記号論から見る――(17)

第2節 おカネの本体C

ただし、その単位にはひとつの限定がある。
それぞれの社会で「おカネ」と認められた特定の「乗り物」の単位でなければならない、という限定である。
おカネの乗り物は、それぞれの時代、それぞれの社会ごとに特定されているG。その特定されたおカネの乗り物を数える際の単位が、一般に、おカネの単位として使用される。
つまり、「数値と特定された単位の組み合わせで構成される」という、あらゆるおカネの共通要素が抽出できる。

注G その特定された「乗り物」がそれぞれの時代、それぞれの社会において「おカネ」として認識される。つまり、ある社会(時代)においてはコメが、別のある社会(時代)においては金が、別のある社会(時代)には紙幣が、おカネとして認識される。しかし、これらのモノはすべて、実は、ここで提起したおカネ信号の「乗り物」に過ぎない点を確認しておきたい。
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2012年07月08日

おカネ信号”の提唱――経済を記号論から見る――(16)

第2節 おカネの本体B

先にいくつか例示した「無数で多様なおカネ」の共通項を探してみる。
大切なのは、モノとしての外形ではない。考えなければならないのは、それらの「乗り物」の構成と働き方である。
すると、「多い」とか「わずかな」とかいった量の多少を示すことばも含めて、おカネとして機能するためには、かならず「量を示すための数値」がなければならないことが分かる。
しかし、数値だけでは、おカネは成り立たない。もう一つ、絶対に欠かせない要素がある。
単位である。おカネのあらゆる「乗り物」に単位が存在する。
典型的なのは、円、ドル、元、ペソ、ルピーなどといった通貨単位だ。
コメなら石、金属ならグラムや匁、毛皮や絹織物なら枚や匹、貝殻なら個といった単位が用いられる。
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