まえがきF
そうした立場からいま思うのは、「おカネはメディアである」ということである。
のちほど本論で説明するが、メディアとは情報を伝えるための多様な「乗り物」であり、その「乗り物」には、それぞれの情報を代理するさまざまな信号が乗せられる。
そして、そうした信号のなかでも圧倒的な量を占め、かつ根源的な位置にあるのは、音声信号ないしは画像信号のかたちをとった「ことば」である。
同じように、経済の領域においても、おカネという「乗り物」と、それに乗る「おカネ信号」を想定することができる。
わたしたちの生活の大きな部分を占める物財や労働は、「おカネ信号」という信号に転換され、その信号がさまざまな形をとるおカネというメディアに乗って、人々や企業、国などのあいだを行き来している、と考えることが可能だ。
いうまでもないが、ここで提起したおカネ信号は、情報の分野における音声信号としてのことばに相当し、モノとしてのおカネは、ことばの乗り物であるメディアに相当する。
情報と物財といえば一見まったく異なる分野のようにみえるが、おカネ信号を想定すると、いずれの分野においても、人々のつながりは、信号とその内容の伝達という基本的に同一の原理に基づいて機能していることが分かる。
本論文では、前半でおカネやおカネ信号について考察し、後半で、そこで獲得した視点をもとに、おカネとことばとの比較を試みる。
2012年06月30日
2012年06月29日
“おカネ信号”の提唱――経済を記号論から見る――(7)
まえがきE
その後わたしは、滋賀県大津市にある龍谷大学国債文化学部に移った。
主な担当科目は「文化(社会)人類学」、「情報(メディア)論」「アジア論」である。
「文化(社会)人類学」は、学生時代に探検部で活動したクラブ活動の実績が基礎である。また、「情報(メディア)論」は、新聞記者としての経験を、「アジア論」はアジア各地で特派員をしてきた経験を、それぞれ生かすことが求められる。
「文化(社会)人類学」では、当然のことだが、現地調査(フィールドワーク)を重視する。
わたしの勤務した瀬田学舎に近い草津市で活動していた「地域通貨おうみ委員会」は、日本における地域通貨運動の草分けのような地位を占めている。コミュニティ活動への関心から、ゼミの学生を送り込んだ。
2003年度に卒業したゼミ生の鈴木信子は1年余り活動に加わり、『おうみ夢舞台――地域通貨おうみ委員会スタッフ体験』と題する卒業論文を書き上げた。また、2005年度卒業の十倉和彦は「NPOのあり方―地域通貨おうみ委員会から学ぶ」をまとめた。
それらの学生の指導、および「地域通貨おうみ委員会」の中心人物である金澤恵美さんらとの交流を通して、「おカネとは何か?」という問題に関心を持つようになったC。
注C わたし自身についていえば、『「消費おばけ」と「貢ぎお化け」――おカネから見たW世界経済秩序“』(「国際文化研究2006年」第10号)と『利息を禁止した宗教の知恵――おカネと資本についての一考察』(「国際文化研究2007年」第11号)とおカネを主題に考察を進めてきた。
この2つの論文は、すでに当ブログで紹介した。
その後わたしは、滋賀県大津市にある龍谷大学国債文化学部に移った。
主な担当科目は「文化(社会)人類学」、「情報(メディア)論」「アジア論」である。
「文化(社会)人類学」は、学生時代に探検部で活動したクラブ活動の実績が基礎である。また、「情報(メディア)論」は、新聞記者としての経験を、「アジア論」はアジア各地で特派員をしてきた経験を、それぞれ生かすことが求められる。
「文化(社会)人類学」では、当然のことだが、現地調査(フィールドワーク)を重視する。
わたしの勤務した瀬田学舎に近い草津市で活動していた「地域通貨おうみ委員会」は、日本における地域通貨運動の草分けのような地位を占めている。コミュニティ活動への関心から、ゼミの学生を送り込んだ。
2003年度に卒業したゼミ生の鈴木信子は1年余り活動に加わり、『おうみ夢舞台――地域通貨おうみ委員会スタッフ体験』と題する卒業論文を書き上げた。また、2005年度卒業の十倉和彦は「NPOのあり方―地域通貨おうみ委員会から学ぶ」をまとめた。
それらの学生の指導、および「地域通貨おうみ委員会」の中心人物である金澤恵美さんらとの交流を通して、「おカネとは何か?」という問題に関心を持つようになったC。
注C わたし自身についていえば、『「消費おばけ」と「貢ぎお化け」――おカネから見たW世界経済秩序“』(「国際文化研究2006年」第10号)と『利息を禁止した宗教の知恵――おカネと資本についての一考察』(「国際文化研究2007年」第11号)とおカネを主題に考察を進めてきた。
この2つの論文は、すでに当ブログで紹介した。
2012年06月28日
“おカネ信号”の提唱――経済を記号論から見る――(6)
まえがき5 注Bのつづき
近代経済学の基本ともいえる「市場原理」と「比較生産費説」についても、科学的かどうか疑えば疑える。
市場原理は、世界中が「改革」で追及している経済モデルである。
教科書的にいえば、買い手と売り手が無数に存在し、価格にすべての情報が反映されて最適な資源配分が行われると想定されている。しかし、そのような市場が現実には存在しないことも、教科書にある、もうひとつの前提である。
2つの考えは共存できないという点で明らかに矛盾しているのだが、近代経済学は、さまざまな例外を設定し、それぞれに説明を付加することで精緻化を図る。
その部分だけみれば論理は見事であるとしても、多すぎる例外は、基本とされるモデルの破綻を意味しないであろうか。
もう一例、あげてみよう。
比較生産費説は、各自がその持てる能力を発揮し、それぞれの成果を交換することが、全体にとってもっとも効率的だという主張だ。分業や自由貿易論の論拠である。
分業によって豊かさが実現しているのは間違いないし、もし一人ですべてを生産するとすれば、極端に貧しい生活を強いられるだろうということは十分理解できる。
しかし、だからといって、われわれは「持てる能力」を発揮するだけで満足しなければならないものであろうか。
「各人(国)が得意分野に専念」するのが最適の資源配分だなどとはいわれるのは、現状に満足している国や人には都合がよいが、現状に不満なひとびとにとっては迷惑な話だ。
近代経済学の基本ともいえる「市場原理」と「比較生産費説」についても、科学的かどうか疑えば疑える。
市場原理は、世界中が「改革」で追及している経済モデルである。
教科書的にいえば、買い手と売り手が無数に存在し、価格にすべての情報が反映されて最適な資源配分が行われると想定されている。しかし、そのような市場が現実には存在しないことも、教科書にある、もうひとつの前提である。
2つの考えは共存できないという点で明らかに矛盾しているのだが、近代経済学は、さまざまな例外を設定し、それぞれに説明を付加することで精緻化を図る。
その部分だけみれば論理は見事であるとしても、多すぎる例外は、基本とされるモデルの破綻を意味しないであろうか。
もう一例、あげてみよう。
比較生産費説は、各自がその持てる能力を発揮し、それぞれの成果を交換することが、全体にとってもっとも効率的だという主張だ。分業や自由貿易論の論拠である。
分業によって豊かさが実現しているのは間違いないし、もし一人ですべてを生産するとすれば、極端に貧しい生活を強いられるだろうということは十分理解できる。
しかし、だからといって、われわれは「持てる能力」を発揮するだけで満足しなければならないものであろうか。
「各人(国)が得意分野に専念」するのが最適の資源配分だなどとはいわれるのは、現状に満足している国や人には都合がよいが、現状に不満なひとびとにとっては迷惑な話だ。
2012年06月27日
“おカネ信号”の提唱――経済を記号論から見る――(5)
まえがきC
なぜ、わたしがこのような課題に取り組むか?
わたし自身の歩みについての説明を続けたい。
わたしは60歳で朝日新聞社を定年退職した後、マレーシアのクアラルンプールにある「日本マレーシア高等教育大学連合プログラム」に参加し、日本のいくつかの私大への留学予定者(大学1年生に相当)を対象に『歴史』および『経済』を教えることになった。
大学院生時代にアルバイトに大阪の予備校で「政治・経済」を教えていらいの経済学の学習である。ほとんど初学といってよいレベルではあったが、その経験を通して、いわば経済学的視点から社会をみることを覚えたB。
注B それは、ある意味で、わたし自身が教えながら学ぶ日々であった。
経済学の指導では、基本から学びたいという考えで「経済原論」に取り組んだ。
そこで見つけた、論理的な美しさは魅惑的ですらあった。
おそらく20代で学べば、まるで外国語を学習するように詰め込みに追われただろう。
しかし、ある程度の年齢になっての学習である。「美しさ」の中にも、「科学」としてみるなら、いくつもの欠陥があるように感じられた。
そのひとつに、さまざまな論理の前提が、ほとんど何も問われていないということがある。
一例をあげれば、経済学のすべての論理は、「人は自らの利益の極大化を目指す」という仮定から出発している。
しかし、そのことを話すと、あるマレー人の学生は「それは違う」と明快に異議申し立てをした。それは、ある意味で、わたし自身が経済学を疑い始めるきっかけだった。
たしかに「人は利益のためにのみ生きるのではない」という方が、ずっと人間の真実に近い。
「希少性の原則」というのもある。わたしたちがもつ時間も物財も資源も(欲望に比べて)乏しい。そういう乏しい資源を最大限に生かし、効率的に用いる方途を考えるのが経済学という学問だ、と多くの学生向けの入門書にある。
ほんとうにそうだろうか?
「時間つぶし」は、だれにもごく普通のことだ。ありあまる時間、ありあまる物財に囲まれ、“消費”に途方にくれている。それが、わたしたちが生きている現実ではないではないのか。
もちろん、仮にそうしたありまる「余剰」を前提にすると、経済学の教えはまったく別のものになる。
(この注、つづく)
なぜ、わたしがこのような課題に取り組むか?
わたし自身の歩みについての説明を続けたい。
わたしは60歳で朝日新聞社を定年退職した後、マレーシアのクアラルンプールにある「日本マレーシア高等教育大学連合プログラム」に参加し、日本のいくつかの私大への留学予定者(大学1年生に相当)を対象に『歴史』および『経済』を教えることになった。
大学院生時代にアルバイトに大阪の予備校で「政治・経済」を教えていらいの経済学の学習である。ほとんど初学といってよいレベルではあったが、その経験を通して、いわば経済学的視点から社会をみることを覚えたB。
注B それは、ある意味で、わたし自身が教えながら学ぶ日々であった。
経済学の指導では、基本から学びたいという考えで「経済原論」に取り組んだ。
そこで見つけた、論理的な美しさは魅惑的ですらあった。
おそらく20代で学べば、まるで外国語を学習するように詰め込みに追われただろう。
しかし、ある程度の年齢になっての学習である。「美しさ」の中にも、「科学」としてみるなら、いくつもの欠陥があるように感じられた。
そのひとつに、さまざまな論理の前提が、ほとんど何も問われていないということがある。
一例をあげれば、経済学のすべての論理は、「人は自らの利益の極大化を目指す」という仮定から出発している。
しかし、そのことを話すと、あるマレー人の学生は「それは違う」と明快に異議申し立てをした。それは、ある意味で、わたし自身が経済学を疑い始めるきっかけだった。
たしかに「人は利益のためにのみ生きるのではない」という方が、ずっと人間の真実に近い。
「希少性の原則」というのもある。わたしたちがもつ時間も物財も資源も(欲望に比べて)乏しい。そういう乏しい資源を最大限に生かし、効率的に用いる方途を考えるのが経済学という学問だ、と多くの学生向けの入門書にある。
ほんとうにそうだろうか?
「時間つぶし」は、だれにもごく普通のことだ。ありあまる時間、ありあまる物財に囲まれ、“消費”に途方にくれている。それが、わたしたちが生きている現実ではないではないのか。
もちろん、仮にそうしたありまる「余剰」を前提にすると、経済学の教えはまったく別のものになる。
(この注、つづく)
2012年06月26日
“おカネ信号”の提唱――経済を記号論から見る――(4)
“おカネ信号”の提唱――経済を記号論から見る――(4)
まえがきB
しかしながら、情報化社会が進展する中で、おカネが際限なく多様化し、しかも、投資資金が世界をめぐるマネー経済の影響が、モノやサービスの需給に基づく実体経済を離れて、日ごとに拡大している。
いわば経済の情報化、あるいは、情報の経済化が急速かつ大規模に進行している。
このような状況の中で、おカネを単に「交換の仲介物」としてほとんど無視するに等しい態度を取ることは、経済事象の正確な認識を曇らせる可能性があろう。むしろ、おカネの本質をいま問うことが求められているのではないか。
わたしは、大学では歴史と文化人類学を学び、その後30年以上にわたって、新聞記者としてメディアの世界で働いてきたA。
その間の約10年間は、インド、シンガポール、インドネシアに滞在し、南アジア各国や東南アジア各国についての報道に従事した。韓国、旧ソ連などでも報道活動に携わった。
注A わたしは大学では理学部に入学し、3回生で文学部西洋史学科に転入した。
理学部で学んだことは、論理的思考を身につけるうえで、有効であったと思う。
また、文学部に転学部した動機は、広い意味での「歴史」を学びたいと思ったためである。しかし、実際に転学部してみると、日本史、東洋史、西洋史、中東史などの地域史はあったが、「歴史」全体を学ぶ場はなかった。
世界を総合的にみる「歴史」を学びたいという、わたしの思いは「新世界史―同時代でみる日本と世界」(三一書房、1996年)で結実した。
また、それとは別に、わたしは「探検部」という学生サークルに所属し、文化人類学はそこで学んだ。四手井綱英部長(林学)のほか顧問に芦田譲治(生物学)、今西錦司(人類学)、梅棹忠夫(文化人類学)、川喜田二郎(地理学)、中尾佐助(植物生態学)、藤田和夫(地学)、吉井良三(動物学)らをそろえ、内外にフィールド調査を繰り返す。学生サークルとしては極めてぜいたくな、最高の学問的環境だったといえるだろう。とくに梅棹氏の自宅で毎週金曜夕から翌朝にかけて開かれた「梅棹サロン」から受けた刺激は大きかった。
わたし自身についていえば学生時代に、知床半島、カナダ・ハドソン湾岸のエスキモー、マレーシアのネグリート族、インド・デカン高原のマリア族などについて現地調査した。
まえがきB
しかしながら、情報化社会が進展する中で、おカネが際限なく多様化し、しかも、投資資金が世界をめぐるマネー経済の影響が、モノやサービスの需給に基づく実体経済を離れて、日ごとに拡大している。
いわば経済の情報化、あるいは、情報の経済化が急速かつ大規模に進行している。
このような状況の中で、おカネを単に「交換の仲介物」としてほとんど無視するに等しい態度を取ることは、経済事象の正確な認識を曇らせる可能性があろう。むしろ、おカネの本質をいま問うことが求められているのではないか。
わたしは、大学では歴史と文化人類学を学び、その後30年以上にわたって、新聞記者としてメディアの世界で働いてきたA。
その間の約10年間は、インド、シンガポール、インドネシアに滞在し、南アジア各国や東南アジア各国についての報道に従事した。韓国、旧ソ連などでも報道活動に携わった。
注A わたしは大学では理学部に入学し、3回生で文学部西洋史学科に転入した。
理学部で学んだことは、論理的思考を身につけるうえで、有効であったと思う。
また、文学部に転学部した動機は、広い意味での「歴史」を学びたいと思ったためである。しかし、実際に転学部してみると、日本史、東洋史、西洋史、中東史などの地域史はあったが、「歴史」全体を学ぶ場はなかった。
世界を総合的にみる「歴史」を学びたいという、わたしの思いは「新世界史―同時代でみる日本と世界」(三一書房、1996年)で結実した。
また、それとは別に、わたしは「探検部」という学生サークルに所属し、文化人類学はそこで学んだ。四手井綱英部長(林学)のほか顧問に芦田譲治(生物学)、今西錦司(人類学)、梅棹忠夫(文化人類学)、川喜田二郎(地理学)、中尾佐助(植物生態学)、藤田和夫(地学)、吉井良三(動物学)らをそろえ、内外にフィールド調査を繰り返す。学生サークルとしては極めてぜいたくな、最高の学問的環境だったといえるだろう。とくに梅棹氏の自宅で毎週金曜夕から翌朝にかけて開かれた「梅棹サロン」から受けた刺激は大きかった。
わたし自身についていえば学生時代に、知床半島、カナダ・ハドソン湾岸のエスキモー、マレーシアのネグリート族、インド・デカン高原のマリア族などについて現地調査した。
2012年06月25日
“おカネ信号”の提唱――経済を記号論から見る――(3)
まえがきA
ところが、近代経済学は「おカネは仲介物であって、経済の実体ではない」という論拠から、おカネの本質について正面から議論することを避けてきている@。
注@ 現代の経済学では「おカネとは何か」という課題は、例外的に一部の研究者が問うだけで、ほとんど問題にされていない。
過去においてはマルクス、メンガーなど多くの研究者が論じてきているのだが、現在、それに取り組んでいるのは、アメリカで主流を占める近代経済学から離れた、むしろ、哲学や人類学、社会学などの領域に近い人々である。
しかしながら、諸説が入り乱れ、必ずしも明快な説明はなされていないのが実情だ。
いくつか例をあげると、岡田裕之は「貨幣の代理性をつきつめて本体に迫るとその本体はない」、あるいは「実体を究明すると途端に幽霊のように姿を消す貨幣が、なぜ経済社会の中心にあって実際に諸機能をつつがなく果たし、家計・個人と社会の経済循環を維持するのか。できるのか」((岡田裕之『貨幣の形成と進化―モノからシンボルへ』p3)と嘆いている。
また、岩井克人はマルクスの「価値形態論」を批判したうえで「貨幣が貨幣であるのは、それが貨幣であるからなのである」(岩井克人『貨幣論』p70)とする。そして、「ものの数にもはいらないモノが、貨幣として流通することによって、モノを超える価値をもってしまうのである。無から有がうまれているのである。ここに『神秘』がある」(岩井克人『貨幣論』p73)と、ほとんどお手上げの状態だ。
ところが、近代経済学は「おカネは仲介物であって、経済の実体ではない」という論拠から、おカネの本質について正面から議論することを避けてきている@。
注@ 現代の経済学では「おカネとは何か」という課題は、例外的に一部の研究者が問うだけで、ほとんど問題にされていない。
過去においてはマルクス、メンガーなど多くの研究者が論じてきているのだが、現在、それに取り組んでいるのは、アメリカで主流を占める近代経済学から離れた、むしろ、哲学や人類学、社会学などの領域に近い人々である。
しかしながら、諸説が入り乱れ、必ずしも明快な説明はなされていないのが実情だ。
いくつか例をあげると、岡田裕之は「貨幣の代理性をつきつめて本体に迫るとその本体はない」、あるいは「実体を究明すると途端に幽霊のように姿を消す貨幣が、なぜ経済社会の中心にあって実際に諸機能をつつがなく果たし、家計・個人と社会の経済循環を維持するのか。できるのか」((岡田裕之『貨幣の形成と進化―モノからシンボルへ』p3)と嘆いている。
また、岩井克人はマルクスの「価値形態論」を批判したうえで「貨幣が貨幣であるのは、それが貨幣であるからなのである」(岩井克人『貨幣論』p70)とする。そして、「ものの数にもはいらないモノが、貨幣として流通することによって、モノを超える価値をもってしまうのである。無から有がうまれているのである。ここに『神秘』がある」(岩井克人『貨幣論』p73)と、ほとんどお手上げの状態だ。
2012年06月24日
“おカネ信号”の提唱――経済を記号論から見る――(2)
まえがき@
電子マネー、地域通貨、お財布携帯、マイレージ、ポイントカード……多様なおカネまたはおカネ類似物が次々に世に現れる。
商品券や図書券も、モノと交換できるという点で、おカネの代わりをする。
むかしながらの預金も、仮に通帳の記録というかたちでしか存在しないとしても、「預金通貨」というおカネである。
銀行の作り出す「信用通貨」というおカネもある。
そんなおカネが、ATMやそれに類似した機器のキーを数回たたくだけで、まるで魔法のように人々のあいだを、そしてまた、企業や国々のあいだを行き来する。そして、膨張と収縮あるいは集中と逃散を繰り返し、ときに社会に深い爪痕を残す。
そもそも何がおカネで、何がおカネでないのか。
おカネは、いつ、どこで生れ、いつ、どこで消滅するのか。
おカネがわたしたちの人生を悲喜劇で彩り、かつ左右するのはなぜなのか……疑問は尽きない。
電子マネー、地域通貨、お財布携帯、マイレージ、ポイントカード……多様なおカネまたはおカネ類似物が次々に世に現れる。
商品券や図書券も、モノと交換できるという点で、おカネの代わりをする。
むかしながらの預金も、仮に通帳の記録というかたちでしか存在しないとしても、「預金通貨」というおカネである。
銀行の作り出す「信用通貨」というおカネもある。
そんなおカネが、ATMやそれに類似した機器のキーを数回たたくだけで、まるで魔法のように人々のあいだを、そしてまた、企業や国々のあいだを行き来する。そして、膨張と収縮あるいは集中と逃散を繰り返し、ときに社会に深い爪痕を残す。
そもそも何がおカネで、何がおカネでないのか。
おカネは、いつ、どこで生れ、いつ、どこで消滅するのか。
おカネがわたしたちの人生を悲喜劇で彩り、かつ左右するのはなぜなのか……疑問は尽きない。
2012年06月23日
“おカネ信号”の提唱――経済を記号論から見る――(1)
An idea of “Money-signal”
――An experimental introduction of semiotics into the socio-economic field――
概要
情報化社会の進展とは、一面、情報の金銭的価値が増大し、経済全体が情報化してゆくことであろう。そんな中でおカネの重要性が増大していることは、電子マネー、携帯財布、地域通貨、マイレージなど新しいおカネないしおカネ類似物が次々に登場し、さらには、マネー経済が世界規模で急速に拡大している現実が示す通りである。
しかしながら、従来の近代経済学では、おカネは「交換の仲介物であって実物経済ではない」と位置づけられ、おカネについての考察は等閑視されてきた。
おカネは、社会的な物質循環の中枢に位置するという点で、情報をつなぐ「ことば」とともに、わたしたちの社会をつなぐ紐帯としての役割を果たしている。
情報化する経済に対応するためには、おカネをその本質から捉え直すことが必要であろう。
情報伝達の手段としてメディアということばが充てられるが、メディアとは、現実には、それぞれの情報を代理するさまざまな信号が乗った「乗り物」である。
そして、そうした信号のなかでも圧倒的な量を占め、かつ根源的な位置にあるのは、音声信号ないしは画像信号のかたちをとった「ことば」である。
本論では、それと同様に、おカネとは、物財や労働の相対的な価値を代理する「おカネ信号」が乗った、多様な「乗り物」の総称であると想定する。
ここで提案する「おカネ信号」は情報の分野における「ことば」に、また、「おカネ」はメディアに相当する、と考えることができる。
おカネ信号を想定すると、経済の領域におけるおカネの機能が、情報の領域におけることばの機能に極似していることが分かる。
そのことが示すのは、物財か情報かを問わず、人々のつながりを作り出す仕組みが、基本的に、同一の原理に基づいているということである。
前半でおカネやおカネ信号について考察し、後半で、そこで獲得した視点をもとに、おカネとことばとの比較を試みる。
――An experimental introduction of semiotics into the socio-economic field――
概要
情報化社会の進展とは、一面、情報の金銭的価値が増大し、経済全体が情報化してゆくことであろう。そんな中でおカネの重要性が増大していることは、電子マネー、携帯財布、地域通貨、マイレージなど新しいおカネないしおカネ類似物が次々に登場し、さらには、マネー経済が世界規模で急速に拡大している現実が示す通りである。
しかしながら、従来の近代経済学では、おカネは「交換の仲介物であって実物経済ではない」と位置づけられ、おカネについての考察は等閑視されてきた。
おカネは、社会的な物質循環の中枢に位置するという点で、情報をつなぐ「ことば」とともに、わたしたちの社会をつなぐ紐帯としての役割を果たしている。
情報化する経済に対応するためには、おカネをその本質から捉え直すことが必要であろう。
情報伝達の手段としてメディアということばが充てられるが、メディアとは、現実には、それぞれの情報を代理するさまざまな信号が乗った「乗り物」である。
そして、そうした信号のなかでも圧倒的な量を占め、かつ根源的な位置にあるのは、音声信号ないしは画像信号のかたちをとった「ことば」である。
本論では、それと同様に、おカネとは、物財や労働の相対的な価値を代理する「おカネ信号」が乗った、多様な「乗り物」の総称であると想定する。
ここで提案する「おカネ信号」は情報の分野における「ことば」に、また、「おカネ」はメディアに相当する、と考えることができる。
おカネ信号を想定すると、経済の領域におけるおカネの機能が、情報の領域におけることばの機能に極似していることが分かる。
そのことが示すのは、物財か情報かを問わず、人々のつながりを作り出す仕組みが、基本的に、同一の原理に基づいているということである。
前半でおカネやおカネ信号について考察し、後半で、そこで獲得した視点をもとに、おカネとことばとの比較を試みる。
2012年06月19日
利息を禁止した宗教の智恵―おカネと資本について考察する―(48)
Y おカネという象徴――時間はだれのものかI
ヒトは未来を語ることができるという点で、極めて特殊な動物である。
しかし、どのように語り、予測しようとも、未来とはいまだ実現せざるもの以外のなにものでもない。
そんな未来を「いま」に取り込むことがどれほどに可能なのか。
アリストテレスに、そしてまた、イスラム教聖職者や中世のキリスト教聖職者らの言説に、そのことに対する恐れと、そこからくる禁欲が読み取れないだろうか。
「利息の禁止」という制度的制約が、現実には抜け道だらけだったにしても、そこに、究極のカタストロフィを避けようとする、ある種の知恵が含まれていた可能性は否定できない。
問われているのは、おそらく「時間」はだれに属するのか、という問題である。もしかしたら、神の領域においておくべきことではなかったか。
(了)
2012年06月18日
利息を禁止した宗教の智恵―おカネと資本について考察する―(47)
Y おカネという象徴――時間はだれのものかH
実際に1930年代の大不況時代に、オーストリアのある町で「減価する地域通貨」が発行されたことがある。
ノートのようなお札をつくって、一月経過するごとにスタンプを貼って、価値が減るようにしたのだ。
同じお札が、今日は1万円だが、1ヶ月すると9900円になってしまう。
すると、みんなが懸命におカネを使い始めた。
そして、地域社会全体でおカネの回転がはやまり、地域の経済が目に見えて活性化した、という。
「減価するおカネ」――かつてアリストテレスや宗教家たちが説いた「利息禁止」の建前と、どこか共通した響きを感じないだろうか。
実際に1930年代の大不況時代に、オーストリアのある町で「減価する地域通貨」が発行されたことがある。
ノートのようなお札をつくって、一月経過するごとにスタンプを貼って、価値が減るようにしたのだ。
同じお札が、今日は1万円だが、1ヶ月すると9900円になってしまう。
すると、みんなが懸命におカネを使い始めた。
そして、地域社会全体でおカネの回転がはやまり、地域の経済が目に見えて活性化した、という。
「減価するおカネ」――かつてアリストテレスや宗教家たちが説いた「利息禁止」の建前と、どこか共通した響きを感じないだろうか。
2012年06月17日
利息を禁止した宗教の智恵―おカネと資本について考察する―(46)
Y おカネという象徴――時間はだれのものかG
利息の問題を議論する際、絶対に外せない、しかしちょっと意外な人物がいる。作家であり、地域通貨運動を強力に推し進めたミヒャエル・エンデ(1995年没)である。
エンデは、第一次大戦後のドイツの経済学者シルビオ・ゲゼルを引いて、「おカネは老化しなければならない」といっているP。
「靴は履きつぶされ、ジャガイモは食べられてしまう。それだのに、それを買った(それと交換した)おカネはいつまでもなくならない。これではモノとおカネのやり取りは、等価交換ということにならない」
つまり、モノは劣化するのに1万円札はいつまで経っても1万円だ。それでは、両者の交換は不平等だ、という。
そこで彼は、「おカネを生む」どころか「減価するおカネ」を提案する。
「ちょうど血液が骨髄でつくられ、循環して、その役目を果たしたあとに老化して排泄される。それと同じように、おカネはだんだん価値を減らしていくべきだ」
注P 註P河邑厚徳+グループ現代著 『エンデの遺言―根源からお金を問うこと』32p NHK出版 2000年
利息の問題を議論する際、絶対に外せない、しかしちょっと意外な人物がいる。作家であり、地域通貨運動を強力に推し進めたミヒャエル・エンデ(1995年没)である。
エンデは、第一次大戦後のドイツの経済学者シルビオ・ゲゼルを引いて、「おカネは老化しなければならない」といっているP。
「靴は履きつぶされ、ジャガイモは食べられてしまう。それだのに、それを買った(それと交換した)おカネはいつまでもなくならない。これではモノとおカネのやり取りは、等価交換ということにならない」
つまり、モノは劣化するのに1万円札はいつまで経っても1万円だ。それでは、両者の交換は不平等だ、という。
そこで彼は、「おカネを生む」どころか「減価するおカネ」を提案する。
「ちょうど血液が骨髄でつくられ、循環して、その役目を果たしたあとに老化して排泄される。それと同じように、おカネはだんだん価値を減らしていくべきだ」
注P 註P河邑厚徳+グループ現代著 『エンデの遺言―根源からお金を問うこと』32p NHK出版 2000年
2012年06月16日
利息を禁止した宗教の智恵―おカネと資本について考察する―(45)
Y おカネという象徴――時間はだれのものかF
繰り返しになるが、もう一度確認すると、「おカネを生むおカネ」が必要とするのは、「未来のおカネ」への期待である。
その期待を生み出し、そして、実現しようとするさまざまな努力が、資本主義経済の活気と成長、そして、さまざまな悲喜劇の根源にある。
「未来のおカネ」の可能性を求めて「いまのおカネ」が離合集散を繰り返す。
そのことでまた、架空の「未来のおカネ」が次々に誕生し、活動し、そして死滅する。そこにあるのは、「いま」と「未来」と「過去」が入り乱れて交錯する、ほとんどヴァーチャルといいたいような世界である。
しかしながら、もう一度繰り返すなら、「未来のおカネ」とは、まだ実現していない、したがって、まだ「どこにもない」おカネであり、リスクに満ちたおカネである。
仮に未来という時間は無限であるとしても、「未来のおカネ」の価値を最終的に保証するのは、それによって購入される現実の財やサービスの「効用」である。そして、効用は常に個別的・具体的であるから、無限ということはありえない。数字という無際限なシンボルと化したおカネが、諸々の財の有限な「効用」を代理することに大きな矛盾がある。
繰り返しになるが、もう一度確認すると、「おカネを生むおカネ」が必要とするのは、「未来のおカネ」への期待である。
その期待を生み出し、そして、実現しようとするさまざまな努力が、資本主義経済の活気と成長、そして、さまざまな悲喜劇の根源にある。
「未来のおカネ」の可能性を求めて「いまのおカネ」が離合集散を繰り返す。
そのことでまた、架空の「未来のおカネ」が次々に誕生し、活動し、そして死滅する。そこにあるのは、「いま」と「未来」と「過去」が入り乱れて交錯する、ほとんどヴァーチャルといいたいような世界である。
しかしながら、もう一度繰り返すなら、「未来のおカネ」とは、まだ実現していない、したがって、まだ「どこにもない」おカネであり、リスクに満ちたおカネである。
仮に未来という時間は無限であるとしても、「未来のおカネ」の価値を最終的に保証するのは、それによって購入される現実の財やサービスの「効用」である。そして、効用は常に個別的・具体的であるから、無限ということはありえない。数字という無際限なシンボルと化したおカネが、諸々の財の有限な「効用」を代理することに大きな矛盾がある。
2012年06月15日
利息を禁止した宗教の智恵―おカネと資本について考察する―(44)
利息を禁止した宗教の智恵―おカネと資本について考察する―(44)
Y おカネという象徴――時間はだれのものかE
話を戻す。
おカネの異時点間交換は、実をいうと、資本主義社会に特有のことではない。
おカネが発明されたごく初期の段階から人々が気づき、実行してきていることは容易に推定できる。
一方におカネに困る人がいて、他方に余裕のある人がいれば、その間に融通が行なわれるのはごく自然なことである。
ところが、アリストテレスはおカネを貸して利息を取ることを「取財術のうちもっとも自然に反したものである」と決めつけた。
そして、ユダヤ教に始まる一神教世界では、建前として、そのようなおカネの交換を長く封印してきた。
ヨーロッパ・キリスト教世界の一部でその封印が解かれたとき、近代資本主義はスタートを切り、世界規模での経済的拡大が始まった。
われわれがいま享受する豊かさが、利息が解禁された、この新しい経済システムに負っていることは間違いない。
そのような経済成長の可能性があるにも関わらず、アリストテレスや一神教の指導者たちはなぜ利息を封印したのか。
Y おカネという象徴――時間はだれのものかE
話を戻す。
おカネの異時点間交換は、実をいうと、資本主義社会に特有のことではない。
おカネが発明されたごく初期の段階から人々が気づき、実行してきていることは容易に推定できる。
一方におカネに困る人がいて、他方に余裕のある人がいれば、その間に融通が行なわれるのはごく自然なことである。
ところが、アリストテレスはおカネを貸して利息を取ることを「取財術のうちもっとも自然に反したものである」と決めつけた。
そして、ユダヤ教に始まる一神教世界では、建前として、そのようなおカネの交換を長く封印してきた。
ヨーロッパ・キリスト教世界の一部でその封印が解かれたとき、近代資本主義はスタートを切り、世界規模での経済的拡大が始まった。
われわれがいま享受する豊かさが、利息が解禁された、この新しい経済システムに負っていることは間違いない。
そのような経済成長の可能性があるにも関わらず、アリストテレスや一神教の指導者たちはなぜ利息を封印したのか。
2012年06月14日
利息を禁止した宗教の智恵―おカネと資本について考察する―(43)
Y おカネという象徴――時間はだれのものかD
資本主義による、経済規模の爆発的な拡大を可能にした要因のひとつは、このモノや労働の象徴化であろう。
効用は個別的であり、したがって常に限定的である。
それに対して、シンボルは一般的・普遍的であり、だからこそ、無際限な拡大・複写が可能になる。個別の価値を持っていたモノやサービスが、ただ「金額」で表される数字、つまり「おカネ」というシンボルと化したとき、そのシンボルが自己運動を起こして「自らへの報酬」を求め続け、無際限な拡張を続けてきた果てに、現代の資本主義社会がある、とみることができるのではないか。
資本主義による、経済規模の爆発的な拡大を可能にした要因のひとつは、このモノや労働の象徴化であろう。
効用は個別的であり、したがって常に限定的である。
それに対して、シンボルは一般的・普遍的であり、だからこそ、無際限な拡大・複写が可能になる。個別の価値を持っていたモノやサービスが、ただ「金額」で表される数字、つまり「おカネ」というシンボルと化したとき、そのシンボルが自己運動を起こして「自らへの報酬」を求め続け、無際限な拡張を続けてきた果てに、現代の資本主義社会がある、とみることができるのではないか。
2012年06月13日
利息を禁止した宗教の智恵―おカネと資本について考察する―(42)
Y おカネという象徴――時間はだれのものかC
ところが、工業制生産が本格化し資本主義社会へ移行するとともに、かつて村落共同体の内部で“自給”されていたモノの多くが、工場で生産され、商店で販売される「商品」に変わる。
これは、「贈与交換」を中心にモノやサービスのやり取りをしていたかつての社会が、「市場交換」を中心にやりとりする、おカネ中心の社会に変わったことを意味する。
贈与交換にともなう効用であれば、それを贈与する人、贈与される人、あるいは贈与される状況などに応じて、価値は常に個別的である。
しかし、おカネで表示される価格は常に数字であり、それ以外の何ものでもない。こうして、モノの価値は、広い意味での効用から価格という数字に移行する。
それは、かつて社会の中で占める位置に応じて個別的で特殊だったモノや労働が、おカネで表される数字に象徴化(シンボル化)されたことを意味する。
ところが、工業制生産が本格化し資本主義社会へ移行するとともに、かつて村落共同体の内部で“自給”されていたモノの多くが、工場で生産され、商店で販売される「商品」に変わる。
これは、「贈与交換」を中心にモノやサービスのやり取りをしていたかつての社会が、「市場交換」を中心にやりとりする、おカネ中心の社会に変わったことを意味する。
贈与交換にともなう効用であれば、それを贈与する人、贈与される人、あるいは贈与される状況などに応じて、価値は常に個別的である。
しかし、おカネで表示される価格は常に数字であり、それ以外の何ものでもない。こうして、モノの価値は、広い意味での効用から価格という数字に移行する。
それは、かつて社会の中で占める位置に応じて個別的で特殊だったモノや労働が、おカネで表される数字に象徴化(シンボル化)されたことを意味する。
2012年06月12日
利息を禁止した宗教の智恵―おカネと資本について考察する―(41)
Y おカネという象徴――時間はだれのものかB
近代以前の地域社会にあっては、おカネとは、税を払い、あるいは、地域内で自給できないモノを購入する、いわば、地域社会がその外部とつながるインターフェイスで必要とされる交換財であり、それ以上のなにものでもない。
こうした状況はちょうど、今日、家族成員間で、モノや労働がおカネのやり取り抜きで日常的に交換されているのに似ている。そこでも、おカネが必要とされるのは、家族と外部社会とのインターフェイスである O。
註O文化人類学では、インセスト・タブーによって結婚が禁止された同族集団である“we(我々)”と、結婚相手として考えることのできる外婚集団である“they(彼ら)”を明白に区別する考え方がある。経験的事実として、おカネをともなうモノやサービスの交換は、基本的に“they”集団との取引の場合に限られている。
近代以前の地域社会にあっては、おカネとは、税を払い、あるいは、地域内で自給できないモノを購入する、いわば、地域社会がその外部とつながるインターフェイスで必要とされる交換財であり、それ以上のなにものでもない。
こうした状況はちょうど、今日、家族成員間で、モノや労働がおカネのやり取り抜きで日常的に交換されているのに似ている。そこでも、おカネが必要とされるのは、家族と外部社会とのインターフェイスである O。
註O文化人類学では、インセスト・タブーによって結婚が禁止された同族集団である“we(我々)”と、結婚相手として考えることのできる外婚集団である“they(彼ら)”を明白に区別する考え方がある。経験的事実として、おカネをともなうモノやサービスの交換は、基本的に“they”集団との取引の場合に限られている。
2012年06月10日
利息を禁止した宗教の智恵―おカネと資本について考察する―(40)
Y おカネという象徴――時間はだれのものかA
「モノ」とはなにか?
わたしは、モノには本来、ふたつの類別がある、と考えている。
さしあたり、近代資本主義以前の社会について考える。
類別のひとつは、私たちが現在、観光地でみる豪華な宮殿や寺院などの建築物、あるいは博物館などで見る精緻な手工芸品である。
それらは、支配階級を対象につくられ、「支配」を正当化し、支配者を「偶像」つまりある種のシンボルに仕立てる手段として機能した。着飾った衛兵すら、そのような目的を課せられたモノに等しかった。
もうひとつの類別は、庶民が用いたさまざまなモノである。それらは「暮らしに役立つ」こと、いいかえればその効用に価値があった。
コメや魚は腹の足しに「食べる」モノであり、住居は風雨を避けて「住まう」ところであり、衣服は寒暖を避け、身を守るために「着る」ものであった。
そして、そうした暮しに役立つモノの多くは地域社会内で自給され、人々は労働(サービス)を含めて、おカネを介してではなく、贈与交換(贈答)というかたちで入手したN。
各戸に織機があり、夜なべ仕事にぞうりや雨合羽をつくり、住家すら近所の人々の助けを借りて建てた。
そういう時代に、人々が日々の課題としたのは、「昨日のように今日を生きる」ことである。
大切なのはモノやサービスが交換というかたちで「循環」し、そのことで各人が生命を維持・継続することであった。
贈与交換によって行き来するモノやサービスの価値は、おカネで測られる数量ではなく、名誉や使用価値を含めて、まさしく、そこで必要とされる度合い、つまり効用であった。
注N K.Polanyiは、経済統合の原理として1)互酬性 2)再配分 3)交換―の三つの概念を提示している。「贈与交換(贈答)」を成り立たせている基本原理のひとつは互酬性の原則であり、それば「返礼の原則」すなわち、他人に対して与えた親切のような無形のものであれ、食べ物のような有形のものであれ、いつの日か返礼として返済されることが期待される。
「モノ」とはなにか?
わたしは、モノには本来、ふたつの類別がある、と考えている。
さしあたり、近代資本主義以前の社会について考える。
類別のひとつは、私たちが現在、観光地でみる豪華な宮殿や寺院などの建築物、あるいは博物館などで見る精緻な手工芸品である。
それらは、支配階級を対象につくられ、「支配」を正当化し、支配者を「偶像」つまりある種のシンボルに仕立てる手段として機能した。着飾った衛兵すら、そのような目的を課せられたモノに等しかった。
もうひとつの類別は、庶民が用いたさまざまなモノである。それらは「暮らしに役立つ」こと、いいかえればその効用に価値があった。
コメや魚は腹の足しに「食べる」モノであり、住居は風雨を避けて「住まう」ところであり、衣服は寒暖を避け、身を守るために「着る」ものであった。
そして、そうした暮しに役立つモノの多くは地域社会内で自給され、人々は労働(サービス)を含めて、おカネを介してではなく、贈与交換(贈答)というかたちで入手したN。
各戸に織機があり、夜なべ仕事にぞうりや雨合羽をつくり、住家すら近所の人々の助けを借りて建てた。
そういう時代に、人々が日々の課題としたのは、「昨日のように今日を生きる」ことである。
大切なのはモノやサービスが交換というかたちで「循環」し、そのことで各人が生命を維持・継続することであった。
贈与交換によって行き来するモノやサービスの価値は、おカネで測られる数量ではなく、名誉や使用価値を含めて、まさしく、そこで必要とされる度合い、つまり効用であった。
注N K.Polanyiは、経済統合の原理として1)互酬性 2)再配分 3)交換―の三つの概念を提示している。「贈与交換(贈答)」を成り立たせている基本原理のひとつは互酬性の原則であり、それば「返礼の原則」すなわち、他人に対して与えた親切のような無形のものであれ、食べ物のような有形のものであれ、いつの日か返礼として返済されることが期待される。
2012年06月09日
利息を禁止した宗教の智恵―おカネと資本について考察する―(39)
Y おカネという象徴――時間はだれのものか@
人は言葉を介して思考や意思を交換する。
同じように、おカネを媒介に、財やサービスを交換する。
そして、そのような言葉やおカネを媒介にした無数の交換を通して、社会(コミュニティ)は成立する。
交換を媒介する代理物であるという点で、おカネもまた、言葉と同じようにシンボル(象徴)であり、人類の生み出した根幹的メディアといえよう。
おカネのもっとも重要な役割は、教科書的にいえば、「交換仲介機能」である。アダム・スミスが説いたように、物々交換という仕組みは、欲望の二重の一致などの困難がある。そこにおカネが登場することで、分業はスムーズに働くようになったM。
注M 相手が自分の欲する商品を持ち、自分もまた相手の欲する、同価値の商品を持っていなければならない。
人は言葉を介して思考や意思を交換する。
同じように、おカネを媒介に、財やサービスを交換する。
そして、そのような言葉やおカネを媒介にした無数の交換を通して、社会(コミュニティ)は成立する。
交換を媒介する代理物であるという点で、おカネもまた、言葉と同じようにシンボル(象徴)であり、人類の生み出した根幹的メディアといえよう。
おカネのもっとも重要な役割は、教科書的にいえば、「交換仲介機能」である。アダム・スミスが説いたように、物々交換という仕組みは、欲望の二重の一致などの困難がある。そこにおカネが登場することで、分業はスムーズに働くようになったM。
注M 相手が自分の欲する商品を持ち、自分もまた相手の欲する、同価値の商品を持っていなければならない。
2012年06月08日
利息を禁止した宗教の智恵―おカネと資本について考察する―(38)
X 利息――「未来のおカネ」を「いま」に取り込むF
企業活動の場合、資金は、資本金、社債、借入金などの形で調達される。
そのいずれをとってみても、企業の側からみるなら、個人が住宅ローンを借りる場合と変わりない。
「いまのおカネ」を受け入れ、それを活用して作り出す(予定の)「未来のおカネ」との交換が見込まれている。
そのほか、たとえば月賦販売やクレジットなどのビジネス・モデルに見られるように、われわれは、知恵を尽くして「未来のおカネ」を「いま」に取り込む工夫をしている。
資本主義とは、このように「未来のおカネ」を「いま」に持ち込むことで成り立つ仕組みである。
その意味で、いまだ実現していない「未来のおカネ」への期待こそが、おカネから見た資本主義の根幹的心性であり、そこに、経済の量的拡大つまり経済成長が、制度としての組み込まれていること、別のいい方をするなら、それなしでは維持できない仕組みであることは容易に理解できるだろう。
いや、もっと過激ないい方も可能であろう。
「未来のおカネ」の取り込み過ぎとその破綻、つまり、バブルとその崩壊が制度的に組み込まれている、と。
企業活動の場合、資金は、資本金、社債、借入金などの形で調達される。
そのいずれをとってみても、企業の側からみるなら、個人が住宅ローンを借りる場合と変わりない。
「いまのおカネ」を受け入れ、それを活用して作り出す(予定の)「未来のおカネ」との交換が見込まれている。
そのほか、たとえば月賦販売やクレジットなどのビジネス・モデルに見られるように、われわれは、知恵を尽くして「未来のおカネ」を「いま」に取り込む工夫をしている。
資本主義とは、このように「未来のおカネ」を「いま」に持ち込むことで成り立つ仕組みである。
その意味で、いまだ実現していない「未来のおカネ」への期待こそが、おカネから見た資本主義の根幹的心性であり、そこに、経済の量的拡大つまり経済成長が、制度としての組み込まれていること、別のいい方をするなら、それなしでは維持できない仕組みであることは容易に理解できるだろう。
いや、もっと過激ないい方も可能であろう。
「未来のおカネ」の取り込み過ぎとその破綻、つまり、バブルとその崩壊が制度的に組み込まれている、と。
2012年06月07日
利息を禁止した宗教の智恵―おカネと資本について考察する―(37)
X 利息――「未来のおカネ」を「いま」に取り込むE
国債も、これに似ている。
政府は国債の大量発行によって「いまのおカネ」を手に入れ、費消する。
そのおカネは結局のところ「未来のおカネ」との交換として入手されたものであり、つけは未来の国民に回ってくる。
国際貿易をはるかに上回る規模で国際社会を行き来する投機マネーはどうか。
さまざまな経済主体から出た資金を何倍にも膨らませて投資するレバレッジという手法が知られる。
それが、銀行のつくり出す「預金通貨」と同じように、未来から持ち込まれた「まだ実在しないおカネ」を生み出す魔法のようなテクニックでない、とだれがいえるだろう。
国債も、これに似ている。
政府は国債の大量発行によって「いまのおカネ」を手に入れ、費消する。
そのおカネは結局のところ「未来のおカネ」との交換として入手されたものであり、つけは未来の国民に回ってくる。
国際貿易をはるかに上回る規模で国際社会を行き来する投機マネーはどうか。
さまざまな経済主体から出た資金を何倍にも膨らませて投資するレバレッジという手法が知られる。
それが、銀行のつくり出す「預金通貨」と同じように、未来から持ち込まれた「まだ実在しないおカネ」を生み出す魔法のようなテクニックでない、とだれがいえるだろう。