2012年05月29日

おカネがおカネを生む!

利息を禁止した宗教の智恵―おカネと資本について考察する―(32)
X 利息――「未来のおカネ」を「いま」に取り込む@

利息とは、おカネが生み出すおカネである。
とはいえ、おカネは、どのようにしておカネを生み出すのか。
多くの経済学者がさまざまな論理を展開してきた。
古典派経済学が説くのは、「資本財に対する配当」という考えである。
経済活動は、労働、土地、資本などの生産要素を活用することでなされる。
労働に対して賃金、土地に対して地代が払われるように、資本に対しても利潤の配当がある、と考える。
他方、共産主義を主唱したマルクスは、「おカネがおカネ(価値)を生む」ことを否定した。すべての価値は、労働者の労働から生まれる。利潤は、それを搾取しているに過ぎない、と。
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2012年05月28日

利息を禁止した宗教の智恵―おカネと資本について考察する―(31)

D 仏教と利息E

「神の言葉」に始まる一神教の世界では、その言葉に由来する建前が重視され、その建前ゆえのさまざまな“抜け道”が工夫されてきた。
それに対して、多神教の世界では、ありのままの世の中の現実が肯定的に受け止められた、とでも解することができるのであろうか。
 もっとも、だからといって、仏教社会においては借金の重荷が社会的に肯定された、ということではないことは注意しておきたい。
鎌倉時代、幕府はしばしば質入の土地や質物を無償で持ち主に返す徳政令を出すことで、御家人らの債務による窮状を救っている。
同じころ、庶民もまた、実力で借金棒引きを実現している。
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2012年05月27日

利息を禁止した宗教の智恵―おカネと資本について考察する―(30)

D 仏教と利息D

日本でも、利息の禁止という伝統的な考えは存在しない。
「公地公民」で知られる律令制度の維持が難しくなった平安時代、「公出挙」とよばれる制度が普及している。
地方長官である国司が、その“俸給”として、官の倉庫にあるモミを農民に貸して、利息をとることである。これがときに収穫の五割にも達したという。
また、「年官」といって、国司を推薦する権利を特定の個人に与える制度も知られる。
年官の仕事は、公出挙であがる利息の横流しを条件に、息のかかったものを国司として推薦することである。
 こうしてみると、東洋の多神教の世界では、利息を一般的に禁止する考えはない、とみることができる。
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2012年05月26日

利息を禁止した宗教の智恵―おカネと資本について考察する―(29)

利息を禁止した宗教の智恵―おカネと資本について考察する―(29)
D 仏教と利息C

釈迦と同じころ、やはり北インドでヴァルダマーナが始めたジャイナ教では、「生き物を殺すな」という不殺生の戒律を極端にする宗教として知られる。
わたし自身、インドで暮らした際、アリなどの虫を踏み潰さないように箒で掃きながら歩く白衣の人々、そしてまた、ハエが飛びこまないようにマスクをして暮らす白衣の人々を実際に見かけたことがある。ジャイナ教徒たちである。
彼らは当然、農耕はしない。
虫類の殺傷につながりかねないからである。
同じ理由で、木こりや石工もできない。牧畜も許されない。
そんなジャイナ教徒に許された主要な職業が、金貸しと小売業(商業)である。
いまも東南アジアや中東でよく見かけるインド人両替商の一部は、ジャイナ教徒である。ここでも、宗教的な利息の禁止といったことが行われていないことは明瞭である。
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2012年05月25日

利息を禁止した宗教の智恵―おカネと資本について考察する―(28)

D 仏教と利息B

インド学者の中村元氏は、原始仏教の聖典から、こんな話を紹介している。
「孤独者に食を給する長者は仏教教団に経済的な意味の施与を行ったが、さらに多くの商人が証文を認めて1億8000万という巨額の金をかれから借用した。しかしその豪商はこれらを回収しようとしない。のちにこの豪商が経済的に逼迫したので、女の魔神が借主を脅かして、負債を返させた」K
中村氏によると、聖典は、ここに描かれた話について、よいこととして賞賛しているとして、次の3つの教訓を引き出している。
すなわち、
@他人を助けるために金を貸すのはよいことである
Aしかし自分で借金の取立てをやいやいいうのはよくない
B他人のために金を取り立ててやるのはよいことである
そして、こう結論付ける。
「原始仏教には利子禁止の思想は存在しないのみならず、負債に対する利子の正当性を承認しているのである」L

注K 中村元『中村元選集 第15巻 原始仏教の生活原理』P329)
注L 同上
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2012年05月24日

利息を禁止した宗教の智恵―おカネと資本について考察する―(27)

D 仏教と利息A

初期仏教や上座部仏教は、どちらかといえば、在家信者より出家修行者に厳しい戒律を課す。
その厳しい戒律にしたがうなら、出家修行者が経済活動に関係することは許されない。したがって、金銭や金銀宝石を手に取ったり、蓄えたりすることも許されないことになる。
しかし、現実には、かなり早い段階で、教団による『無尽財』が認められている。これは具体的には、寺院に収められた財を民間に貸し出し、その利潤を得る行為である。
1、2世紀ごろのインドの碑文には、伝統的な仏教教団は広大な土地と莫大な金銭が寄進され、そうしてできた荘園からの収入と貸付の利子が、教団の主要な収入だったと記されている、というJ。
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2012年05月23日

利息を禁止した宗教の智恵―おカネと資本について考察する―(26)


D 仏教と利息@

 中東からヨーロッパにかけて普及した一神教で、そろって利息の取得が禁止されていたことをみてきた。
イスラム教世界ではいまも建前上、利息の取得は禁止されている。
ユダヤ教世界では建前上「同胞」に限って禁止され、キリスト教世界ではかつて禁止されていたが、宗教改革によって全面的に解除された、という違いがある。
では、東洋の仏教の場合はどうか。
興味深いことに、仏教では最初から利息は禁じられていない。
初期仏教の文献には、在家信者の正しい職業として耕作、商売、収納業にならんで「金貸」が言及されている。
ついでにいえば、「正しくない職業」は、武器、生き物、肉、酒、それに毒――の五種類の売買である。そのほか、盗賊、死刑執行人、猟師、裁判官なども悪い職業とされているI。

注I  芦川博通 前掲書p252
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2012年05月22日

利息を禁止した宗教の智恵―おカネと資本について考察する―(25)

W 聖書と利息の開放――宗教改革B

聖職者らがキリスト教徒に植え付けていた中世ヨーロッパの「おカネへの禁欲」は、まさしく根拠を失った。
それが同時に、「おカネを生むおカネ」つまり、利息や資本の解禁を意味したことは、論理的帰結であろう。
以上を要約するなら、キリスト教徒には許されなかった金融が、ユダヤ人に対してだけ「異教徒を対象に」許されていたことが、ヨーロッパ中世の権力構造の一部であった。
宗教改革による聖書の一般開放とともにその権力構造は崩れ、キリスト教徒らが直接、金融業にアクセスできるようになった。
そのことが近代資本主義への道を開いた。
そのように考えることができる。
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2012年05月21日

利息を禁止した宗教の智恵―おカネと資本について考察する―(24)

W 聖書と利息の開放――宗教改革A

前にみたように、ヨーロッパの中世は、キリスト教の時代というよりもむしろキリスト教聖職者の時代である。当時のキリスト教とは、聖職者らの言説とそれに対する盲従に他ならない。
そして、ルターをはじめとする宗教改革者らが着手したのは、聖書のドイツ語やフランス語などへの翻訳・出版である。
そうすると、宗教改革とは、もうひとつの見方をするなら、「聖書の一般への開放」である。人々の知らない言葉で書かれ、手の届かなかった聖書が、製紙術と印刷技術の発達とともに各地の言語に翻訳され、だれでも読めるようになった。
そこで人々は、とんでもない発見をする。
聖職者らの言説が必ずしも聖書に基づいてはいない、という明白な事実である。
そうなると、中世キリスト教会の権威そのものの否定に向かうのは自然な動きであろう。
教会から聖書へ――
この権威の移行こそが宗教改革であり、プロテスタントの誕生であった。
そして、その聖書には「利息の禁止」という文言はいっさいない。それどころか、銀行や利息を公認する「タラントンの教え」もある。
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2012年05月20日

利息を禁止した宗教の智恵―おカネと資本について考察する―(23)

W 聖書と利息の開放――宗教改革@

中世ヨーロッパにおけるキリスト教の利息禁止は、ユダヤ人差別とあいまって、キリスト教聖職者や封建領主ら権力層が蓄財し地位を維持する、ひとつの有力な手段であった。
そうであれば、教会の権威にたいする反抗を出発点とする宗教改革が、利息の禁止という中世の“制度”に反旗を翻すのは当然のことであろう。
利息を教義解釈の上で公認したのは、スイスの宗教改革者カルヴィンである。
イギリスでは、ヘンリー八世が1545年に、年利10%以内の利子取得を認める法令を発布した。
よく知られるように、ドイツの思想家マックス・ウェーバーは、宗教改革こそが勤勉や利得追求などの近代的生活態度への道を開き、西ヨーロッパにおいて資本主義が成立する基盤になった、と説いている。(マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)
もちろん、そうした「生活態度」の変化も大きいだろう。
しかし、宗教改革にともなう聖書の一般への開放がそのまま利息の容認につながったことも、また、ヨーロッパにおける資本主義成立の大きな要因だと考えることができる。
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2012年05月19日

利息を禁止した宗教の智恵―おカネと資本について考察する―(22)

利息を禁止した宗教の智恵―おカネと資本について考察する―(22)
V タラントンの譬え――キリスト教の場合F

注H ここで紹介した「差別と利権の構造」は、時代や地域を超えて、人間社会にかなり普遍的な「支配の構造」であろう。
わたしが、この構造に気づいたのは、1997年から99年にかけて、朝日新聞ジャカルタ支局長として、インドネシアに滞在していたときである。
  わたしはたまたま、32年余りにわたってあの国を支配したスハルト大統領の退陣に遭遇した。
  なぜ、スハルト大統領(当時)は、それほど長期の独裁政権を維持できたか?
  そのことを考えていて、行き着いた理由のひとつが、まさしく、ここで紹介した「差別と特権の構造」であった。
  制度的に華人を差別する。その一方で、一部華人実業家に特権をあたえて経済活動に従事させる。そして、彼らと癒着するなかで政治資金を獲得する。
  それが、当時いわれたクローニー(大統領の取り巻き実業家)の実態だった。
  その仕組みの巧妙さに、わたしはうなった。
――『スハルト帝国の崩壊』(めこん 1999年)――
  中世ヨーロッパにおけるユダヤ人金融業者の活動も、20世紀インドネシアの華人実業家らとほぼあい同一の「差別と特権の構造」に基づいている――今回、「利息」を考えるなかで気づいたことである。
  日本のさまざまな社会的差別の中にも、そのような構造が内包されている場合もあるのではないか。
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2012年05月18日

利息を禁止した宗教の智恵―おカネと資本について考察する―(21)

V タラントンの譬え――キリスト教の場合E

その一方で、ユダヤ人の金融業者に対する一般庶民の反感が極端に強まったような場合、債務の免除を一方的に宣言して債務者らを救済することで自らの評判を高め、地位を守ることもできる。
さらに危機的な状況に陥ったなら、ユダヤ人をまとめて追放し、その財産を没収することも可能だ。
こうしてみると、キリスト教聖職者や封建領主にとっては、差別され社会的な弱者であるユダヤ人金貸しらは、まさしく差別されているというそのことによって、“金の卵”を生むニワトリだった。
いうまでもないことだが、そのようにユダヤ人金貸しを利用できたのも、一般のキリスト教徒については徴利が禁止されていたからである。
こうして、利息の禁止という教会法の規定のなかで、中世ヨーロッパの封建領主や教会指導者とユダヤ人金融業者らは、愛憎半ばする共犯関係を結んでいた、と考えることができるH。
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2012年05月17日

利息を禁止した宗教の智恵―おカネと資本について考察する―(20)

利息を禁止した宗教の智恵―おカネと資本について考察する―(20)
V タラントンの譬え――キリスト教の場合D

キリスト教徒が利息の取得を建前上禁止された中で、公然と貸金業を営なむことができたのが、「異教徒からは利子を取る」ことが公認されていたユダヤ教徒である。なかには、一般庶民相手の消費者金融で財を築く者も少なくなかった。
そういうユダヤ人はまた、キリスト教社会からは異端者である。
金貸しというその職業からいっても彼らに対する嫌悪や差別は日常的にあり、いつ、どのような迫害を受けるかもしれない恐怖の中で暮らしている。
そんな彼らにとって、頼れるのはおカネである。
おカネの力で権力層と結託しようとするのは、自然な心情であろう。
他方、封建領主やキリスト教聖職者といった権力層からみれば、ユダヤ人金貸しがそうした迫害に対し恐怖心を抱いているからこそ、彼らを自在に操ることができる。
一部のユダヤ人らに“特権的に”金貸し開業を許可すれば、それがまさに特権的な措置であることによって、利益の一定部分を巻き上げるのは容易なことだ。
とくに、まとまったおカネが必要になる戦時には、ユダヤ人金貸しは頼りになる調達相手である。
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2012年05月16日

利息を禁止した宗教の智恵―おカネと資本について考察する―(19)

V タラントンの譬え――キリスト教の場合C

ここで、少し前に宿題にした、聖書にないにもかかわらず、なぜ、中世のキリスト教聖職者らは利息を禁止したのかという問題に戻りたい。
中世ヨーロッパのキリスト教世界における利息の禁止は、単なる聖書の解釈の問題ではなかった。むしろ、社会的な安定維持のための構造的な仕組みの一端だった、と解することができる。
そのためには、中世ヨーロッパにおけるキリスト教の性格を確認しておかなければならない。
紙も印刷術もまだ知られていない時代のことである。聖書は、ラテン語を修めた聖職者たちの独占物であった。
そのことを前提にするなら、当時のキリスト教は、「聖書のキリスト教」というより、むしろ「聖職者のキリスト教」だったと考える方が自然であろう。
彼らがもうひとつの権力層である封建領主と組んで、自らに都合のよいように聖書解釈を行ない、その解釈を広く一般大衆を従わせる手段としていた、と考えることができる。
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2012年05月15日

利息を禁止した宗教の智恵―おカネと資本について考察する―(18)

V タラントンの譬え――キリスト教の場合B

聖書が明白に禁止している事実はない。それにもかかわらず、なぜ、中世のキリスト教聖職者らは利息を禁止したのか。このことについては後で考えたい。
その前に、利息禁止の建前にもかかわらず、現実には、イスラム教徒の場合と同じように、さまざまな便法が考え出されていることを確認しておく。
芦川氏の著作からいくつかを紹介しよう。
 かなり一般的に行われたのが、定められた期限内に返済されなかったことにして、その「損害賠償金」という名目でおカネの受け渡しを行なう方法だ。
 貸借の証書に最初から利子分を含めた金額を記入しておく、という方法もある。
ほんとうに受け渡しがあったのは100万円でも、証書のうえでは125万円を渡したことにする。そうすれば、少なくとも利息の証拠は残らない。神はおそらく証拠のないことには気がつかないのだ。
イスラム教の場合と同じように、債権者が債務者の土地を担保とし、地代(レント)のかたちで利子分を得る。あるいは、未来の売買と現在の売買の二つの売買を組み合わせ、その差額を債権者が得る、などといった方法も用いられたという。
 国際貿易が盛んになると、外国為替が登場する。その場合、利子は二つの通貨の換算率の中に含めることができる。 
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2012年05月14日

利息を禁止した宗教の智恵―おカネと資本について考察する―(17)

V タラントンの譬え――キリスト教の場合A

ところが、現実には、このような考えは中世のキリスト教会指導者らによって全面的に否定される。
芦川氏によると、「『貨幣は貨幣を生み得ない』というアリストテレスの貨幣不毛説が定型化され、聖書にもとづきながら、初期キリスト教の教父時代から厳格な徴利禁止が教会法にうけつがれ、中世ヨーロッパのキリスト教社会に浸透していった」(注8)という。
禁止は、ユダヤ 教以上に厳しく広範だった。
集団の救済を説くユダヤ教と違って、キリスト教は基本的に個人の救済を説く宗教である。
イスラム教の場合と同じように、同胞か異教徒かというようなことには関わりなく、徴利という行為そのものが禁止されることになる。

注G 芦川博通『前掲書』p128注21 芦川氏はこれに、「13世紀に至っても、トマス・アクィナスやスコラ学者によって利子取得は禁じられている。利子つき貸付は「神に属する時間を売買するもの」とみなされ、不法とされた。これが従来からの利子『ウスラ』である」と続けている。中世という時代にあっても、利息をともなう貸付を「時間の売買」と捉えていることは注意をひく。
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2012年05月13日

利息を禁止した宗教の智恵―おカネと資本について考察する―(16)

V タラントンの譬え――キリスト教の場合@

 『新約聖書』の「マタイ伝」に「タラントンの譬え」と呼ばれる有名な挿話がある。抄訳して紹介する。
「一人の男が、3人の僕(しもべ)におカネ(タラントン)を預けて旅に出た。主人が旅から帰ってくると、二人は商売をして金額を増やしていたが、一人は『穴を堀り、隠しておいた』。主人は最初の二人については『忠実な良い僕だ』とほめたが、最後の一人については『怠け者の悪い僕だ。おカネは銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰ってきたとき利息付で受け取れたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、(前のよい僕に)与えよ。持っている人はさらに与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣き喚いて歯軋りするだろう』」(マタイ伝、25・14−17)

 この譬えは、神から与えられたタレント(タラントン)は神のために十分に生かさなければならない、と諭したものだと一般に解釈される。
しかし、それとは別に、次の三点も読み取ることができる。
@ 聖書が書かれた時代のキリスト教社会で、すでに銀行制度のようなものが存在した
A 利子の支払いや取得が、必ずしも神の前で不正とはみなされていなかった
B おカネを単なる財やサービスを獲得するための交換手段ではなく、財を拡大するための資本としてみる見方が存在し、奨励された。
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2012年05月12日

利息を禁止した宗教の智恵―おカネと資本について考察する―(15)

U 同胞(はらから)からは利息を取ってはならない――ユダヤ教の場合B

旧約聖書からの引用を続ける。
    「利息、高利で財産を増やす者は、
    集めても、弱者を憐れむ人に渡すことになろう」(箴言28・8)
   「同胞には利子を付けて貸してはならない。銀の利子も、食物の利子も、その他利子がつくいかなるものの利子を付けてはならない。外国人には利子を付けて貸しても良いが、同胞には利子を付けて貸してはならない。それは、あなたがはいって得る土地で、あなたの神、主があなたの手の働きすべてに祝福を与えられるためである」(申命記23・20−21)
    利息の取得は明白に禁止されている。しかし、対象は限定されている。
「外国人には利子を付けて貸しても良いが、同胞には利子を付けて貸してはならない……」
ここでいう外国人とは、“異教徒”である。
利息が禁じられているのは、ユダヤ教徒の同胞に対してであって、ユダヤ教徒以外の人々からなら利子をとってもよい、ということである。
ユダヤ教は、個人ではなく集団を救済する宗教である。救済されるべき同胞と、その必要のない異教徒は明確に区別される。
それこそが、歴史時代を通じて、敬虔なユダヤ教徒が教義の上で、金融業にいそしむことができた理由であろう。そして、ユダヤ教徒側のそのような態度がまた、“異教徒”であるキリスト教徒やイスラム教徒からの迫害を招いた理由でもあっただろう。
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2012年05月11日

利息を禁止した宗教の智恵―おカネと資本につ利息を禁いて考察する―(14)

U 同胞(はらから)からは利息を取ってはならない――ユダヤ教の場合B

あるとき、偶然なのだが、ユダヤ人の宗教学者の講演を聞く機会があった(注7)。
以前から心の隅にあった疑問について、なんの知識もないまま尋ねてみた。
「イスラム教では利息は禁止されているが、ユダヤ教ではどうか?」
「それは、複雑な歴史的問題があって……」
その先は、わたしの英語力だけの問題ではなく、よく意味が取れなかった。
あとで考えると、意味が取れなかったのも無理もなかった。彼はおそらく、次に触れる、あるひとつの事実に触れないで説明しようとしたのだ。
 ユダヤ教の聖典である旧約聖書から、利息に触れたいくつかの章句を拾ってみる。
「あなたはその人から利子も利息も取ってはならない。あなたの神を畏れ、同胞があなたと共に生きられるようにしなさい。その人に金や食糧を貸す場合、利子や利息をとってはならない」(レビ記25・36−37)
   「もし、あなたがわたしの民、あなたとともにいる貧しいものに金を貸す場合、かれに対して高利貸しのようになってはならない。かれから利子をとってはならない」(出エジプト記 22・24)

(注7) Professor Frances Landy(Univ. of Alberta, Canada “Isiah in Contemporary Biblical Scholaraship”03年10月29日 龍谷大国際文化学部における研究会で
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2012年05月10日

利息を禁止した宗教の智恵―おカネと資本について考察する―(13)

U 同胞(はらから)からは利息を取ってはならない――ユダヤ教の場合A

本題に戻る。
利息を禁じているイスラム教と類縁関係にあるユダヤ教やキリスト教もまた、利息を禁じているであろうか。
シェークスピアの『ヴェニスの商人』に登場する金貸しのシャイロックにもみられるように、金貸しはかつて、ユダヤ人の代表的な職業であった。イギリスのロスチャイルド銀行などヨーロッパ近代を開いた代表的な銀行の多くもユダヤ人の創業である。
コーランにも、次のような記述がある。
「それからまた彼ら(ユダヤ教徒)は、禁を犯して利息を取り、みんなの財産を下らぬことに浪費した。彼らの中の信なき者どもには苦しい天罰を用意しておいたぞ」(コーラン 4・159)
 ムハンマドの時代ですら、金貸しをするユダヤ人が多かったことは、明瞭だ。ユダヤ人と利息は、切っても切れない深い関係があるようにも思える。

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