2012年04月30日

利息を禁止した宗教の智恵―おカネと資本について考察する―(3)


はじめにA 

ところで、おカネが「おカネを生み出す」仕組みは、交換という側面からみるならA、おカネとおカネの“異時点間交換”にともなう利益の創出である。
おカネを出す側は、預貯金や投資というかたちで「いまのおカネ」を提供する。そのおカネを受け取る事業者側は、それをもとに事業活動を展開し、そこで生じる「未来のおカネ」で返済する。
こうしたおカネの“異時点間交換”にともなう信用の発生、そのことから必然的にシステムに組み込まれた利潤の追求こそが、現代資本主義の根幹的仕組みということができる。
しかし、この仕組みによって生まれたのは、同時に、「いま」に取り込まれた「未来のおカネ」を実現するため、休むことなく馬車馬のように走り続け、経済の拡大・成長を追求することを運命づけられた社会である。
地球環境という限界が見えてきた現在、そのような仕組みをいつまで維持できるものであろうか。

注A  私がおカネについて考え始めた一つのきっかけは、「交換」をキーワードに社会をトータルに考えてみたいと思ったことだ。我々は言葉を媒介にして、思考や意思を交換する。同じようにおカネを媒介にして、モノやサービスを交換する。いってみれば、前者の言葉を介した交換によって形而上世界が認識され、後者のおカネを介した交換によって形而下世界が構成されている、と考えることができるのではないか。交換媒介機能という側面からみるとき、言葉とおカネとは、その機能のメカニズムにおいて驚くほど類似した性質をもっているが、そのことについては別に論じたい。
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2012年04月29日

利息を禁止した宗教の智恵―おカネと資本について考察する―(2)


 はじめに@ 

「おカネはおカネを生む」――現代社会にあっては、だれ一人、疑うことのない常識である。預貯金は利息を生み、投資や債権は、仮にリスクがあるとしても、それなりの利潤を生み出す。そうした確信をもとに、わたしたちの経済生活は成り立っている。
しかしながら、ほんの400−500年前までは、かなり幅広い人類社会で「おカネがおカネを生む」仕組みは、建前として封印されてきていた事実がある@。
とくに、現在に至るも建前としては利息を禁止しているイスラム教と並んで、資本主義という経済制度を生み出した西欧社会の根幹にあるユダヤ教およびキリスト教が、かつて、利息の取得を厳しく禁止していたことは注意をひく。
これら諸宗教はなぜ、どのような論理によって利息を禁止したのか。
また、それら諸宗教のうちキリスト教だけが、16世紀の宗教改革によって金利への封印を解いたのは、なぜか。そこから近代資本主義社会に向けて動き出した機序はどのようにして説明できるか。

注@ 古代ギリシャの賢人アリストテレスは、「憎んで最も当然なのは高利貸である」と記している。「それは彼の財が貨幣そのものから得られるのであって、貨幣がそのことのために作られた当のもの(交換の過程)から得られるものではないことによる。なぜなら金は交換のためにつくられた当のものであるが、利子は金を一層おおくするものだからである。したがってこれは取財術のうちで実は最も自然に反したものである」というのです(アリストテレス著 山本光雄訳『政治学』河出書房、昭和26年)。あるいは、「わずかずつの金銭を高い利息で貸し付ける人々」について「きたない利得欲」だと指摘している。そこでは、「(金銭の)取得の方向において過超している」と記し、女郎屋の亭主などと同格の扱いである(アリストテレス『ニコマコフ倫理学』p10)。

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2012年04月28日

利息を禁止した宗教の智恵―おカネと資本について考察する―(1)

Wisdom of Religions that prohibited “interest”―A study of Money and Capital―

              概   要

 同源の一神教として知られる、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教はそれぞれ利息を禁止してきた。イスラム教はいまも建前としては利息を禁止、ユダヤ教は「同胞」に限って禁止し、また、キリスト教は中世末期の宗教改革で解禁した。
 中世ヨーロッパ社会にあってキリスト教聖職者らは利息禁止を強く主張したが、その主張の背後に、ユダヤ人を差別しながらも、その一方で特権的に「異教徒(キリスト教徒)」相手の金貸し営業権を与え、そのことで彼らを操り、その収益の一部を巻き上げる、いわば体制の維持装置という側面があったとみることができる。

現代金融論では、利息とは、「いまのおカネ」と「未来のおカネ」の交換、いわばおカネの“異時点間交換”にともなう差額の補填である。こうした信用システムから必然的に生じる利潤の追求こそが、現代資本主義の根幹であろう。
しかし、この仕組みによって生まれたのは、「いま」に取り込まれた「未来のおカネ」を実現するため、休むことなく馬車馬のように走り続け、経済の拡大・成長を追求することを運命づけられた社会である。いつまで持続できるのか。

おカネはほんらい、暮らしに役立つモノやサービスと交換したときにその価値を発揮する。その点で、モノやサービスという効用の代理物であり、効用を数値化したシンボル(象徴)ということができる。
効用は有限だが、シンボルは無限である。逆説的だが、古(いにしえ)の賢人や諸宗教が利息を禁止したのは、シンボルが効用を離れて暴走し、「未来」という時間を侵食することへの畏れがあったのではないか。

キーワード
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Judaism, Christianity and Islam, the 3 co-ancestral monotheistic religions had prohibited “interest” in different ways. Muslims still (at least in principle) follow the taboo, Judaism prohibited only fellow-believers and Christianity got rid of the prohibition after the Reformation.
In medieval European society, the prohibition advocated by Christian clergy helped to keep the social structure because the establishment, feudal lords and clergymen, could control and exploit the socially discriminated Jewish people by giving them the exclusive privilege to open money shops.
According to modern financial theory, interest is the difference of the “present values” between today and future money.
The pursuit of profit that is inevitably sought through this credit system must be the psychological basis of our modern Capitalism.
We are truly urged to work hard to realize “the future money” which is used for today’s purpose. Thus, we can’t help but pursue the enlargement and growth of the economy.
But it is obviously impossible to keep this system forever because our Earth is limited in its production.
Money is a kind of symbol and is useful only when exchanged for worldly articles or services which are always limited. But it, as a symbol, also can unlimitedly multiply just by bringing the (unlimited) future money into present time.
The contradiction seems to be awesome, and that can be the covert reason why religious leaders made interest a taboo.
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2012年04月26日

「消費お化け」と「貢ぎお化け」――おカネから見た“世界経済秩序”――(24)

「経常収支と資本収支」、そして「生産と消費」C

最後に、誤解を避けるために付け加えておくと、一見ややこしそうな数式やインドのカースト制度まで持ち出したからといって、上記のような分業システムが成立するのは、ある種の自然法則のような必然であり、受け入れなければならないだろう、といっているのではありません。
システム(制度)とは常に、過去からの歴史的な行きがかり、利害関係者の意思や思惑、誤解、誤謬、当局者の作為や不作為あるいは無為、あとになって、しばしば間違いだったと気づかされる時代の思潮(学説)や狂気などといった、さまざまな要因の組み合わせで合成され、時の経緯とともに変容するものです。
私が本論で検証したかったのは、トヨタ自動車が日本第一の企業になるシステム、そしてまた、一方でサラ金の看板が林立し、他方で「あまった」おカネが大量に海外に出てゆく、この国のシステムの現実です。
それらの現実が、現代世界システムの一部であるのは、間違いありません。
そして、喧伝される市場経済システムの対極ともみえる、このような分業システムが、いまの世界でほんとうに容認されるのだろうか。そしてまた、こうした仕組みの中で、重石を失い、過剰になったおカネが、そのうち私たちに復讐することはないのだろうか――といった不安を感じるのです。
私たちの生きている社会の基盤は、もしかしたら、考えられないほどに不安定でもろいものなのかもしれません。
                       了
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2012年04月25日

「消費お化け」と「貢ぎお化け」――おカネから見た“世界経済秩序”――(23)

「経常収支と資本収支」、そして「生産と消費」B

最近、ある学会で徳永宗雄・京大教授(インド古典学)から、「祭式経済システム」という仮説をうかがいました。
釈迦が生まれたころの古代インド社会について「生産と貢納を役割とするヴァイシャ(商人カースト)から富が布施として上位のバラモン(僧侶カースト)に流れ、その富を高位のバラモンが消費することによって社会に還元される。・・・この経済システムを社会制度の面から支えるのがヴァルナ(カースト)による身分差別だ」というのですK。
古代インド社会の例を考えるまでもなく、生産と消費は、経済の円滑な回転に欠かせない両輪です。社会が受け入れるなら、カーストという役割分担システムも、ひとつの選択肢でした。

注K 日本南アジア学会第18回全国大会 2005年9月 徳永宗雄『バラモン教(形式至上主義)と沙門主義の対立:その政治的・経済的背景』。
なお徳永氏の論は、「諸存在の『再生』という肯定的な概念が『輪廻』という否定的な概念に180度転換する“インド思想史上の最大の謎”」を、「聖の世界を共同体の外部におく沙門・出家主義と、共同体の内部に取り込み、祭式を富の循環の仕組みとして利用したバラモン教の相克のなかで、社会体制維持の原理として『ダルマ』の観念のみが抽出され、帝国維持のイデオロギーとなった」という形で説明している。祭式経済システムを維持するイデオロギーとして、輪廻思想やヴァルナ(カースト)制度がある、と解することができる。
大変な飛躍だが、システマティックに大量生産され、世界にばら撒かれるアメリカ経済学の使徒たちは、もしかしたら、現代のバラモン僧たちではないか、という不埒な考えが頭をよぎった瞬間であった。
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2012年04月24日

「消費お化け」と「貢ぎお化け」――おカネから見た“世界経済秩序”――(22)


「経常収支と資本収支」、そして「生産と消費」A

他方、もし経常収支が赤字なら、それに相当する資本収支の黒字、つまり、金融負債の増加が記録されます。それが、つまりアメリカの姿です。諸外国が、アメリカに国際的支払に充てるドル資産を維持するということは、そのまま、アメリカは、経常収支赤字を甘受し、大量の資金の流入を受け入れなければならないということです。
もう一度(3)式に戻ります。ひとつの均衡式であり、この式自体に問題を探すことはできません。それにも関わらず、しばしば経常収支だけが取り上げられ、その赤字が危険視されます。国内での生産活動と雇用に直接関係するからです。

しかし、だからといって、すべての国が経常収支黒字を実現することは、不可能なことです。赤字でうまくやっていける国が必要です。

現代世界にあっては、それがアメリカという国であり、それを実現する仕組みが、国内と国外で二重に機能するドルという国際通貨に隠されている、と考えることはできないでしょうか。 
世界経済の機軸となる通貨が、1971年に金(ゴールド)という貴重財による縛りから脱したとき、ドルは、かつての中国皇帝の銅貨と同じように、アメリカの調達の道具となり、「貢ぎお化け」と「消費お化け」に分化した世界の構築に向けて動き出した。
そんな考えは、成立しないでしょうか。
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2012年04月23日

「消費お化け」と「貢ぎお化け」――おカネから見た“世界経済秩序”――(21)

「経常収支と資本収支」、そして「生産と消費」@

忘れてはならないことですが、通信技術の発達した昨今では、国際的なおカネのやり取りは、貿易やサービスに対する支払い以上に、株や債券の売買、為替相場の変動を利用する投機などをめぐる金融取引が大きな比重を占めていますJ。

それでも、複式簿記に基づく国際収支表の制約を逃れることは考えられません。
すなわち、国際的な取引についてのごく初歩的な、次の公式は成り立ちます。
経常収支+資本収支+外貨準備増減+誤差脱漏=0・・・(3)
この式が意味するのは、途中はいろいろあっても、一定期間のフローをまとめるとこうなる、ということです。そういう意味で、この式は「事後的に」成立する、といわれます。
このうち外貨準備増減は政府の特別会計による資本の出入りであり、大きく見れば、資本収支の一種です。誤差脱漏は、統計上の問題ですから切り捨ててもよいでしょう。すると(3)式は、
経常収支+資本収支=0・・(4)
と書き換えることができます。
式(3)あるいは式(4)が示しているのは、経常収支が黒字なら、資本収支は赤字になる。いいかえれば、金融資産は増え、負債は減る、という単純なことです。この増加した金融資産は、相手国の側の、金融負債の増加として記帳されます。
民間が外国投資に動かなければ、政府が外貨準備の拡大というかたちで動くしかない、ということです。
どちらに転んでも、我々が営々と溜め込んだ経常収支黒字は還流するしありません。
昨今の日本でいえば、04年春ごろまで政府が外貨準備増減で対応していたが、以後は、民間海外投資で立派に対応できるようになっています。

注J 全世界の国際金融取引については諸説あるが、一般に、1日あたり1兆5000億ドル程度といわれている(2005年初)。世界の貿易取引はここ数年、年間約8兆ドル程度とされており、年間の貿易取引額に相当するおカネが、たった5日間ほどの金融取引で動いていることになる。

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2012年04月21日

「消費お化け」と「貢ぎお化け」――おカネから見た“世界経済秩序”――(19)

ドルのわな@

なんだか妙なことをいっている、と思うでしょうか。
でも、考えてみてください。
自動車やテレビをアメリカに輸出しても、もし、その代金をドルで受け取ったとすれば、それは、日本では何の役にも立たないおカネです。
もちろん円と両替すれば、日本でも使えます。
しかし、今度はその両替してくれた人(企業)にとって、輸入か海外旅行でもしないことには、使い道はありません。
また、もし、貯まったドルを大量に売りに出すようなことをすれば、ドル債権という日本の資産が大規模に目減りしてしまいます。
結局、受け取ったドルを最も有効に使う方法は、いくらかでも金利の稼げるアメリカに戻すことだ、ということになります。

その逆がアメリカです。
外国から何を買おうと、支払うおカネがドルであれば、最終的には、それが有効に使えるアメリカに戻ってきます。
アメリカ人の海外への支払いは、具体的にみれば、アメリカの銀行にあるドル口座の名義人が、アメリカ人から海外居住者に変更されるだけのことです。
銀行の預金総額はまったく減りません。
その預金を原資としてドルの信用創造を行うこともできます。
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2012年04月20日

「消費お化け」と「貢ぎお化け」――おカネから見た“世界経済秩序”――(18)


ブーメランするおカネC

おカネには、当たり前のことですが、儲かるところに集まる性質があります。その儲かるところがアメリカだというのが、エコノミストたちの説明です。
アメリカは金利が高い。
同じカネを寝かせておくなら、金利が限りなくゼロに近い日本や制度的に不安定な中国などより、アメリカにおいていた方がよい。だから、アメリカには日本をはじめ諸外国からおカネが入ってくる、というのです。

そういうアメリカと比較して、たとえば日本はどうか。
黒字の経常収支、そして、個人資産1400兆円という日本のおカネは、いったいどこにあるのか。
郵便局にある。銀行に預けてある。保険会社にある、と思っていないでしょうか。
とんでもない。預かったおカネをそのまま寝かせていたら、郵便局も銀行も保険会社も立ち行きません。
そこで、投資や運用ということがでてきます。現実には、先ほどの1400兆円のうち400兆円近くが、前に見たように海外に投資され、その大半がアメリカでアメリカのおカネとして動いています。
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2012年04月19日

消費お化けと貢ぎお化けーーおカネからみた世界経済秩序(17)

ブーメランするおカネB

それにしても、(2)は不思議な式です。
民間も赤字、政府も赤字。合計ももちろん赤字。
そんな状況では、普通の国なら確実にデフォルト(破産)です。
どこの国も何も売ってくれないでしょう。
ところが、アメリカはデフォルトどころか、世界の超大国です。
借金漬けでも平気でイラクに兵を出し、日本に投資して日本企業を買い取っています。
なぜ、そのようなことができるのか。

おカネがあるからです。
いくら支払っても、そのおカネがブーメランのように、アメリカに戻ってくる仕組みがあるからだ、と考えることができます。
では、その仕組みとは、どのようなものなのか。
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2012年04月18日

消費お化け」と「貢ぎお化け」――おカネから見た“世界経済秩序”――(16)

ブーメランするおカネA

 日本人は心配性だ。将来が不安なためカネを溜め込んでいる。それに対して、アメリカ人は楽天的だ。先の心配をすることもなく、借金暮らしでも平気でカネを使う、といったようなことがしばしばいわれますG。
 しかし、そんな怪しげな「民族性」で説明できるようなことではないでしょう。
 そうではなくて、(2)式と(1)式は連動している、と考えるべきです。「金遣いの荒い」アメリカを、たとえば日本、あるいは直近の情勢でいえば中国などが支える。それが、昨今の国際経済秩序ということではないでしょうか。

注G たとえば、2005年9月にフロリダ半島一帯を襲ったハリケーン「カトリーナ」の被害者は、大半が預貯金を持たず、無一物になってしまった、といった報道もあった。
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2012年04月17日

「消費お化け」と「貢ぎお化け」――おカネから見た“世界経済秩序”――(15)


ブーメランするおカネ@

最初に紹介したように、日本は莫大な経常収支黒字(貿易黒字)を持っています。ごく単純な数式を用いると、
経常収支黒字=民間貯蓄―財政赤字・・(1)
と表されます。財政赤字のことはよく知られています。それでも、巨大な経常収支黒字を生み出しているのは、巨大な民間貯蓄あるいは、同じことですが、民間の投資不足だ、ということは明瞭です。
それに対し、アメリカは双子の赤字、つまり、莫大な経常収支赤字と財政赤字を抱えています。経常収支赤字ということは、稼ぐカネより使うカネの方が多い、ということです。
仮に数式で表すとすれば
経常収支赤字=民間浪費+財政赤字・・(2)
となるでしょう。
なんとも不思議な式です。民間も政府も、払うあてのないおカネを使いまくっています。
(1) 式と(2)式とどちらが問題でしょう。
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2012年04月16日

「消費お化け」と「貢ぎお化け」――おカネから見た“世界経済秩序”――(14)


「収奪の手段」としてのおカネG

ついでにいえば、西欧でも通貨発行特権(seigniorage)という言葉があります。
アダム・スミスはあえて無視しましたが、Seignior(領主)という言葉からも分かるように、おカネの名目的な価値と製造原価との差額を、通貨発行者である領主は、自らの収入としたのです。

そういう、おカネには収奪の手段という側面があるということを前提に、いまの世界を、おカネの流れから見るとどうなるか。
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2012年04月15日

「消費お化け」と「貢ぎお化け」――おカネから見た“世界経済秩序”――(13)


「収奪の手段」としてのおカネF

そういう価値のない素材でできていても、おカネとして通用しました。
なぜか。
ここで国定説が登場します。まさしく政府の権力あるいは信用が流通させた、と考えることができます。
政府にしてみれば、なんとも便利なおカネです。
政府調達に大変有効だからです。
安上がりの素材でつくった「ほんとうは価値のない」おカネと交換に、民間からたとえば戦争のための軍隊の食料や、宮廷維持に必要な物資などさまざまな「ほんとうに価値のある」財を入手できます。
そんなおカネが適当に世間を回ったところで、税として吸い上げ、そしてまた、物資の調達に利用すれば、まさしく濡れ手に粟のぼろもうけですF。
そういうことがあるから、この政府調達の道具である銅貨は、基本的に帝国の領域内でしか通用しません。国際的な通商の場合は、本当に価値のある財、つまり、シルクや馬、あるいは陶磁器が用いられます。

注F 東野治之『貨幣の日本史』朝日新聞社 1997年
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2012年04月14日

「消費お化け」と「貢ぎお化け」――おカネから見た“世界経済秩序”――(12)


「収奪の手段」としてのおカネE

東洋のおカネは、それとは相当に違います。中国の国家(帝国)の成り立ちは、古代から、皇帝を中心とする支配機構が、各地の村落共同体を上からつなぎ、支配のネットワークとして外延的に広がる形で成立しています。
先ほど考察したように、下部組織である村落共同体内部では、おカネはほとんど不要です。しかし、それを超えた大きな集まり=国家ができたとき、おカネは欠かせなくなります。
初期は刀の形をした小さなおカネ、やがて、円形で四角い穴を開けた通貨が登場します。素材は、ごく初期の段階から銅です。金や銀ではありません。磨耗が激しく、金属としての持続的価値のない、銅という素材です。紙幣が世界で最初に登場したのも、中国でした。
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2012年04月13日

「消費お化け」と「貢ぎお化け」――おカネから見た“世界経済秩序”――(11)

「消費お化け」と「貢ぎお化け」――おカネから見た“世界経済秩序”――(11)
「収奪の手段」としてのおカネD

よく知られるように、おカネが、金や銀を素材とするコインというかたちで最も早く発達したのは、中東です。
世界でもっとも早く文明化が進んだこともあるでしょうが、東と西の接点であり、東西の国際的な通商、つまり、他者と他者の交換を仲立ちする位置にある点も見逃せません。
そのような条件の下に発達したのが、素材の金属そのものに価値がなければならない商品貨幣だ、と考えることができます。
「おカネはそれ自体価値がある。なぜなら、金でできている」という近代経済学の命題は、国際交易という条件の下に成立します。
これが、アダム・スミスらの考えを半分は本当だろう、と考える理由です。
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2012年04月12日

「消費お化け」と「貢ぎお化け」――おカネから見た“世界経済秩序”――(10)

「収奪の手段」としてのおカネC

(近代経済学のおカネ「商品説」が)半分は間違っているというのは、そういうおカネが生まれた物々交換市場として、たとえば村の農産物交換所のような、小規模市場が想定されているからです。
現実の(とくに昔の)村落社会では、少なくとも村落内の交換については、ほとんどおカネはいりません。
「野菜がたくさん採れたから…」といって、野菜を作っていない隣家に届ける。家を建てるにも、村の人々が助け合う……そういう助け合いの貸し借りの世界です。
助け合いの貸し借りについては、面子をかけた厳密な計算があります。

しかし、それは結局のところ共同体内部での取引であり、いわば、自分と自分が取引するようなものです。
そういう世界で、財やサービスの交換は、普通、おカネでは処理されません。
文化人類学では、このような助け合いの貸し借りにもとづく交換を「贈与交換」といいますE。
贈与交換が圧倒的に優位を占めている社会で、おカネの発生を導くような物々交換市場を想定することは無理があります。

しかし、そのような共同体であっても外部社会と取引しようということになれば、話は違ってきます。外部社会との取引は、「他者」との取引です。おカネを介した交換は、おカネとモノが等価値であるとみなされなければ成立しません。
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2012年04月11日

「消費お化け」と「貢ぎお化け」――おカネから見た“世界経済秩序”――(9)


「収奪の手段」としてのおカネB

アダム・スミスいらい、近代経済学は商品説の立場をとっています。
分業が成立すれば必然的に生産物の交換が行われるようになります。ところが、物々交換では「(交換に関わる)双方が互いに相手の欲しがるものを持っている」という、スミスのいう「欲望の二重の一致」が必要ですD。その不便を解消するために、それ自体価値のある特定の財が、おカネとして採用された、というのです。
私は、この考えについて、半分本当だが、半分は間違っている、と考えています。

注D アダム・スミス『国富論 第1編』

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2012年04月09日

「消費お化け」と「貢ぎお化け」――おカネから見た“世界経済秩序”――(8)

「収奪の手段」としてのおカネA

なぜ、私たちはおカネを安心して受け取り、交換に応じるのか。

この問題について、大きく分けて二つの考え方があります。商品説と国定説です。
商品説では、おカネは、たとえば金貨や銀貨のように「それ自体価値がある商品である」と考えます。
そういう無数の商品のうちで、分割性、永続性など特殊な性質を備えた特殊なモノがおカネとして機能するようになった、というのです。
もちろん時代が進めば、紙幣など「素材としても価値のないおカネ」が登場します。それでも、「価値あるモノの代理物」として説明されます。
それに対し、国定説では、おカネが価値があるのは、国家という権力が流通を保障しているからだとされます。
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2012年04月08日

「消費お化け」と「貢ぎお化け」――おカネから見た“世界経済秩序”――(7)

「収奪の手段」としてのおカネ@

この問題について、回り道のようですが、おカネの価値ということから考えたいと思います。
わたしたちはおカネをとてもありがたがるのですが、手元のおカネを冷静に見るなら、ちょっと複雑な文様を印刷した長方形の紙切れ、あるいは、ちょっと複雑な刻印を押した円形の金属片に過ぎません。
そんなモノが、どうして価値があるのか。
そんなもので、どうして、おいしい食事ができたり、楽しい旅行に出かけたりできるのか。考えてみると、結構、ややこしい問題です。
おカネが価値があるのは、ほんとうに価値あるモノと交換できるからです。
おカネを出せば、みんながモノやサービスとの交換に応じてくれる、あるいは、応じてくれると信じることができる、ということがあるからです。
もし、だれかが交換を拒否すれば、とたんに、ただの紙切れに戻ってしまいます。
では、なぜ、私たちはおカネを安心して受け取り、交換に応じるのか。
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