2012年02月29日

遠州純子

名物裂と日本の伝統文化(25)

1-c 遠州純子
江戸時代の大名茶人小堀の名前が付いた純子。
文様は紺、縹、萌黄などの大石畳の中に牡丹や宝尽文をしたモダンなデザインをし、「大石畳」とも呼ぶ。
繻子組織の表と裏で、地と文様を織り出し裏繻子組織は経八本越しの緯糸を経糸二本で押さえているため、綾目のように見えるのが特徴。
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2012年02月28日

富田金襴

名物裂と日本の伝統文化(24)

1-b 富田金襴
武将茶人 富田左近将監所用の裂から生まれた名称であると伝えられている。

地組織は三枚綾、緯糸は二本引き揃える。文様は雲が連なった連雲文と宝尽。

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2012年02月27日

大燈金襴

名物裂と日本の伝統文化(23)

1-a 大燈金襴
大燈とは大徳寺(京都市帰宅紫野大徳寺町)開山大燈国師宗峰妙超のことで、この金襴は大燈国師の袈裟の裂をいう。
名物裂の中では貴重な極古渡り裂でその文様の上品で風流のある風格が古来、とくに茶人に珍重されたため、牡丹唐草や純子の笹蔓、石畳などと並んで、名物裂の代表のようによく知られている。

模様は左右対称の形でこの特異な小文様は霊芝文とよび、その上下のハネ形は爪、または蝶、雲、唐草などと呼ばれている。
中央には雲版状の鐶形(かんがた)があり、古来からこの文様の正体を雲とみたり、また唐花や胡蝶とみられる説もある。
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2012年02月26日

名物裂の名称の分類

名物裂と日本の伝統文化(22)

名物裂につけられた名称を分類すると、次の五つに分類できる。
このように分類してみると名称に統一性はなく、裂の独自性も下記1の文様を名称にしたもの以外はまったく認められない。
したがって下記4の名称はどの時代においてもその文様の名称で呼ばれていたものであったと思われる。
下記3の生産地または所在地の名をつけたものは、茶人との関係はうすく、むしろ歴史的要素を多く含む名称である。
下記1、2、5はいずれも茶人や茶器と密接な関係によって名づけられた名称である。
しかも名物裂の中でこの名称を持つものが多い。そのことから見ても、名物裂と茶道の関連がどんなに深いかがわかる。愛蔵した人はみな茶人であり、名器はもちろん茶器茶道具であった。名物裂の名前の由来となった伝承も、茶人、茶道具類、能などにまつわるものが多い。

1 選び出した人、愛蔵した人、好んで用いた人の名をつけたもの
a大燈金襴 b富田金襴 c遠州純子 d珠光純子 e青木間道 f吉野間道 
g有栖川 h紹紦(しょうは) i葛城裂
2 茶入や名品の名をつけたもの
a相坂金襴 b白極純子 c伊予簾純子 
3 所在場所の名をつけたもの
a大徳寺金襴 c鎌倉間道 c清水裂 
4 文様の名や、組織の名をつけたもの
a大内桐金襴 b縬(しじら)間道 c覆(い)盆(ち)子(ご)裂
5 伝来による名をつけたもの
a二人静金襴 b金春金襴 c金剛金襴 d四座金襴
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2012年02月25日

名物裂の名称

名物裂と日本の伝統文化(21)
[ 名称の生まれた過程と名物裂の図版

 名物裂にはいろいろな名称が付けられている。
いつからこれらの名称が付けられたかは正確にはわからないが、これらの裂類が輸入されたときにから付けられたものではないことは、はっきりしている。
茶道が成立し、茶道の指導者が社会的に権威づけられ、その指導者によりこれらの名称がつけられた。
茶道の指導者は一人ではなく、時代の推移とともに変わった。一つの裂に対していくつも異なった名称が存在するのはその為である。
しかし、どの指導者によって、それぞれの名称がつけられたかは解明する資料がないためにわからない。
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2012年02月24日

名物裂の名称はどうつけるか?

名物裂と日本の伝統文化(20)
Z 名物裂の名称

名物裂には「角倉(すみのくら)金襴」「織部(おりべ)純子」「荒磯純子」などのように固有の名称を付けたものがあり、古来茶の湯の世界ではその名を呼んで親しんできた。
こうした名称は、本来名を持たない裂に対する通称であり俗称でもある。これらは個々の裂を識別するために付けられたと考えられるが、通称を用いることはその裂に対する親しみを増す効果もあり、結果としてそれらの裂と取り上げ、伝えた先人に対する尊敬の念も深まる。

既に名称が伝えられている裂は400点近いといわれている。

染織品に名前をつけるとき、次の三つの要素が備わるようにすることが多い。
すなわち、「地色」「模様」「技法」である。この三つをつなぎ合わせたものが美術館や出版物で一般に使われる名称である。
例えば「角倉金襴」、地色は「縹(はなだ)」、模様は「花兎」、技法は「金襴」なので「縹地花兎模様金襴」と表記されることもある。同じように荒磯純子は「萌黄地流水鯉模様純子」となる。
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2012年02月23日

更紗(さらさ)

名物裂と日本の伝統文化(19)

更紗
名物裂では近世初期以降にインドや東南アジアなどからもたらされた模様染めを広く更紗と呼んでいる。
佐羅紗、皿紗、佐羅佐の字をあてることもあり、その語源については、インド西岸の港スラートに由来するとも、ポルトガル語のSarassa、スペイン語のSarazaの音訳ともいわれる。
英国商館員の商業帳簿などによれば、更紗は初めてわが国にもたらされた17世紀前半から、日本人の間で非常に人気があったらしい。
古渡り更紗と知られる彦根藩士井伊家伝来の更紗裂にはこの時期のインド更紗が多数含まれている。
更紗が茶席の表舞台に登場するのは稀で、茶道具の箱の包みとして多く用いられる。
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2012年02月22日

天鵞絨(ビロード)

名物裂と日本の伝統文化(18)
天鵞絨(ビロード)

ビロードはポルトガル語のveludo またはスペイン語のvellodoの発音がなまったものといわれ、天鵞絨の字は光沢が天鵞(てんが)の羽に似ていることからつけられた。
二種類の経糸を用い、一方は普通に織り、もう一方は糸を浮かせて輪奈(タオル地のようなループ)を作り、そのまま残すか、切るかして羽毛状にした織物である。
ビロードはもともと、イタリア、スペインなどで行われた技法だが、江戸時代初期には京都西陣でも織り始めたと伝えられ、名物裂にも収録されている。
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2012年02月21日

モールと海気

名物裂と日本の伝統文化(17)

モール
インド、ペルシャから渡来した織物で莫臥爾、回々織、毛宇留などと書く。
16世紀インドのムガール王朝に盛んに製織され、わが国にもたらされた際、ムガールがなまってモールになったといわれている。
絹糸の芯に平金糸または平銀糸をコイル状に巻きつけて作った撚(より)金子(きんし)や撚銀糸を織り込んだ織物である。茶器の仕覆のほか、帯などにも用いられた。
模様は、横段を表したものや、横段の間に花文などの模様を配したものが多い。

海気
海貴、海黄、改機などとも書く。滑りのよい、光沢のある絹織物で茶入仕覆の裏裂としてしばしば用いられた。経糸、緯糸ともに本練絹糸を用いて平織にするが緯糸は経糸の倍の太さのものを用いる。
天正(1573〜1592)から慶長(1596〜1615)頃にオランダ人によって舶載されたとされ、無地のものを海気、模様を織り出したものを紋海気という。紋海気は模様の部分の織糸を他の部分よりまばらにすることで模様を表している。
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2012年02月20日

金紗と印金

名物裂と日本の伝統文化(16)
金紗(きんしゃ)

金紗は「竹屋町裂」とも呼ばれ、紗地に金糸を練りこんだものである。
竹屋町裂は元和(げんな)年間(1615〜1623)、堺に来た中国人からこの技法を学んだ銭屋、松屋の両人が、京都竹屋町でこれを織り始めたことからこの名があるとされる。
気品の高い金紗は、掛軸の表装に多く見られる。

印金(いんきん)
中国では、銷(しょう)金(きん)、日本では摺(すり)箔(はく)とも呼ばれる技法。
模様を切り透かした型紙を用いて糊(のり)あるいは膠(にかわ)などの接着剤を裂に塗り、その上に金箔を置き、乾いた後に余分な金箔を掃き落とすと金の模様が現れる。中国では宋代に始まり、明代にもっとも盛んに製作された。
中国からの印金の渡来は、日本の摺(すり)箔(はく)の技法の発展に大きな刺激となった、と考えられる。
名物裂の印金には羅、紗、綾などの生地にこれを施したものが一般的で、摩擦に弱いため袋などに使われることは少なく、主に掛幅の表具などに用いられるが、袈裟に用いられた例もある。
表具裂は、裂の格により使用される場所に決まりがあり、印金は最も格が高いとされる一文字と風帯(ふうたい)に多く用いられる。
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2012年02月19日

錦と風通(ふうつう)

名物裂と日本の伝統文化(15)


「故郷に錦を飾る」という例えにも使われている錦は、二色以上の経糸または緯糸の浮枕で模様を織り出した織物の総称で、その言葉の含む範囲はかなり広い。
 中国では漢代にすでに錦が織られ、わが国へは飛鳥、奈良時代に伝来し、技術もほぼ同時に移入されて、国産化も進んでいた。
平安時代、鎌倉時代を通じて、技法、模様とともに和様化した錦が、国内でも生産されていたが、室町時代を中心とする第二回目の本格的な舶載裂の流入期にあたり、中国産の錦が再びもたらされることとなった。
蜀江(しょっこう)錦など、当時中国からもたらされた錦は国産のそれとはまったく趣を異にしており、それ故にこれが舶来品としてもてはやされたものと思われる。

風通(ふうつう)

風通は、表を構成する糸と裏を構成する糸が途中で交差し、それぞれの配色を逆にして同じ模様を表す織物である。表裏の糸が交差する部分以外では、表と裏がそれぞれ別に裂面を作るため、その間が袋状になり、風が通るためこの名があるといわれる。
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2012年02月18日

間道(かんどう)という織物

名物裂と日本の伝統文化(14)
間道(かんどう)

間道は、広東、漢東などと呼ばれ、縞及び格子模様の織物をいう。
絹製と木綿製があり、前者は中国からもたらされ、後者は琉球貿易を通じてインドや東南アジアの諸国からもたらされた。

中国においては、雲南、四川、広東地方が縞織物の産地として知られ、これらの地方からは、通常の縞のほか、浮き糸を帯状に織り込んで紐のように見せるものや、金糸を織り込んで模様を表すものなど、様々なバリエーションが生み出されている。

 一方、インドネシア、ベトナム方面からは、地方ごとに縞の太さや配色に特徴のある木綿縞が多数をもたらされた。中国の絹間道に茶人を暗示するような名称をもつものが多いのに対し、木綿の間道には桟留(さんとめ)縞(セントトーマス)、辨柄(べんがら)縞(ベンガル)など産地名を名称としたものが多い。
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2012年02月17日

純子(どんす)

名物裂と日本の伝統文化(13)

純子(どんす)

名物裂において金襴とともに数が多いのが純子である。金襴ほどの華やかさはないが、上品で渋みがある美しさと、その手ざわりのよさは、特に茶人に愛され、主に茶入の袋に多用された。

地を経の五枚繻子(しゅす)、模様をその裏組織である緯(よこ)の五枚繻子で織り出しているため、光線の当たり具合によって模様が静かに、しかし、はっきりと浮かび上がる。先染した経糸と緯糸を用いて織った織物であってその場合には模様が更に一層鮮やかに浮かび上がる。 

 ただし、名物裂が純子と呼ぶものには、必ずしもこのような組織によらず、経、緯糸に異色を使い、地と模様を異組織で織りだしたものも広く含める傾向がある。
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2012年02月16日

金襴(きんらん)

名物裂と日本の伝統文化(12)
Y 名物裂の種類

金襴(きんらん)

金糸のみで模様を織り表した織物で、一般的には平金糸を用いたものをいう。
平金糸は金箔を紙に貼って金箔紙を作り、これを細く簾(すだれ)状に裁断しておいたもの。
竹へらの一端に引っ掛けて上下に開口した経糸(たていと)の間に織り込んでゆく。

 金襴は、中国で織(しょっ)金(きん)と呼ばれ、わが国へは南北朝時代にはやくももたらされ、舞楽装束に仕立てられている。

以後、室町時代からは日明貿易の活性化とともに、大量に輸入され、袈裟や掛幅の表具、茶入の袋など、幅広い用途に用いられた。

金襴は華やかなものであるが、模様だけでなく地場全体を金糸で埋めたものは更に豪華で、このような金襴を金地(かなじ)と呼ぶ。
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2012年02月15日

名物裂流入の第3期

名物裂と日本の伝統文化(11)
第三期 明治時代

明治時代になると、西洋から流入した染織品や染織技術の影響によって、ごくわずかな伝統的染織品を残すだけで、ほぼ完全に西洋風の染織が主流となってしまう。

以上のように、三つの時期に分けて見てくると、第二期の室町時代から江戸時代初期に至る時期における外来染織品の受容が、とくに長期、持続的であったことがわかる。
このため、第二期の外来染織品が、とくに日本の染織に大きな影響を与えながら、これと融和し、並存してきた、ということができる。
名物裂は、この時代における外来染織品が中核である。
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2012年02月14日

室町〜江戸時代初期の染織品の流入

名物裂と日本の伝統文化(10)
第二期 室町時代〜江戸時代初期

外国染織品が大規模に流入した第二期は、14世紀〜17世紀頃にかけてだ。
大部分の名物裂は、この時期にわが国にもたらされた。
室町時代から江戸時代初期に至るこの時期、中国では元・明時代にあたり、絹織物を中心に第一期の流入期とは異なった内容の染織品が日本にもたらされた。金襴、純子などはその代表的なものである。
 
また、この時代にはインドネシア等の東南アジア諸国から、間道や更紗といった木綿製品、ヨーロッパから南蛮貿易を通じて羅紗(らしゃ)を代表とする羊毛製品がもたらされた。

これら当時の舶来染織品は、その種類と数において第一期に流入したそれよりもはるかに多く、またその渡来時期も第一期よりも長い。
 
飛鳥・奈良時代においては、舶載された染織品が、皇族や、これに近いごく一部の人々や寺院のかなり広い階層に渡って普及していった。それ故、舶載染織品が日本の染織技術や意匠に与える影響も一層大きなものとなった。

桃山時代以降、日本で急速に発達した様々な新しい織物や染物の技術は、染織品そのものとともに、この時期に定着あるいは発達したものである。それらは社会の支配階級の占有物ではなく、様々な人々によって色々な目的や用途に用いられた。
 茶道の世界で珍重された名物裂もその一部であって、当初はそうした限られた目的ではなく、将軍や大名の衣服を飾ったり、舞楽や能の装束に用いられたりした。
例えば、高僧の袈裟(けさ)や寺院の帳(とばり)と同じ裂が、名物裂として茶入れの仕覆や掛幅の表具に用いられたり、舞楽装束に用いられたのと同じ裂が茶の裂地に見られたりする。
 
また、江戸時代に入ってからは、町人が日常の生活の一部にこれを用いることも少なくなかった。更紗や間道が茶道具の袋や風呂敷に使われるだけでなく、小袖や布団地とされるなど、当時の外来染織品の用途は多様であった。
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2012年02月13日

飛鳥・奈良時代における海外染織品の流入

名物裂と日本の伝統文化(9)
X 名物裂(舶載裂)の歴史

舶載の歴史…日本の歴史には、ほぼ600年〜700年の間隔を置いて、3度に渡る大規模な海外染織品の流入時期がある。

第一期 飛鳥・奈良時代
飛鳥・奈良時代は、中国隋・唐の文化が急速に流れ込んだ時期である。
法隆寺と東大寺に代表される大寺院に伝来した7〜8世紀の染織品の中には多くの中国染織品、あるいは朝鮮や西アジア、もしくは南方からもたらされたと考えられる染織品が含まれている。
素材は、綾や錦といった絹ばかりではなく、羊毛を使ったフェルトや錦なども見られる。また、技法も織物だけではなく、刺繍や絣(かすり)など多岐にわたる。

 しかし、平安時代になると、文化の国風化は染織においても見られるようになり、技術や意匠の和様化が盛んになった。
舶来染織の影響はほとんど影を潜め、ほぼ完全に消化、吸収されてしまう。
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2012年02月12日

名物裂の価値

名物裂と日本の伝統文化(8)
W 名物裂の価値

名物裂で最も重要な基盤をなすものは名物と称せられる器物類であるが、名物とはどんな条件を具備したものであったか。

 名物とは「名高いもの」ということである。

名物という名声を獲得する条件は、「珍しく、数が少ないこと、そして、客観的価値性」が第一であった。
この場合の客観性は、限定された世界においての客観性といえるが、茶道の世界における客観的価値性は万人に通用する価値をもっていたため、他の世界においても通用した。

 「「名物裂」は、江戸時代になるとB5用紙程度の大きさで金百五両(推定現在の一千万円)で取引されたといいます。一片の「名物裂」の価値の高さは現代では想像のつかないものだったのです。まばゆい光沢、滑らかな手触り、色鮮やかな文様が多くの人々を魅了し貴重な渡来織物への憧れから生まれた日本人独特な美意識が、所有者や著名な茶人、あついは付属する名物道具等の様々な名称を冠した「名物裂」という独自の文化を形成していきました。そして脆弱な性質の繊維製品でありながら今日まで大切に守り伝えられることにもなりました。」
(著者不明 発行年不明 『名物裂 渡来織物への憧れ』 五島美術館 出版社不明 ご挨拶文より)
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2012年02月11日

名物裂は茶道から

名物裂と日本の伝統文化(7)

名物裂は、日本の染織工芸の歴史の中で、一つの確立された分野の染織作品群である。
これらの作品は、その織技、色調、文様が優れていて、後の日本の染織工芸に大きな影響を及ぼした。
 この名物裂と呼ばれる染織品は、そのほとんどが外国製の染織品であった。
禅僧達によって伝えられた染織品や勘合貿易によって舶載された染織品、さらに南蛮貿易によって輸入された染織品は、いずれの時代においても珍しく美しいものであった。
しかも、その数は多い。そして舶載された時期も長期間にわたり、生産地も中国をはじめ世界各国の広範囲に及んでいる。

したがって名物裂の究明は、その一つ一つの状況についての論及を必要とするが、それらの状況を伝える資料はほとんど無いのが現状である。

染織品は元来、消耗品としての使命をもち、その使命を果たせばよかったので、なんらかの特別の事情のないかぎり、染織品の記録は残されていないのが当然かもしれない。
染織作品は、絵画、彫刻、及び他の美術工芸作品と異なって、ただ使用するためにのみ使われてきた。

それを変えたのが、中世に成立をみた茶道である。
名物裂と呼ばれる染織作品は、中世において成立をみた茶道と密接な関係をもち、茶道によって発生した、とまでいわれている。名物裂の発生基盤は,茶道に求めるべきものである。
数多くの染織品のなかから名物裂と呼ばれるものが、茶道の中において形成されたのである。
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2012年02月10日

茶の湯の始まり

名物裂と日本の伝統文化(6)

安土桃山時代になると、唐物に加えて南蛮船毛船がインド及び東南アジア・ヨーロッパ地域から数えきれないほどのものを持ち渡ってきた。
こうした中で国内の染織技術も向上した。
応仁の乱で一時は疲弊した都の西陣織も蘇り、海外から渡来した名物裂(渡来裂)を模作した和製裂も登場するようになった。

茶湯は、室町時代から安土桃山時代への流れの中で、千利休が大成させた.
将軍、大名、武家、僧侶、豪商などの支配階級や財力を持ち始めた人々が、茶人として茶湯の愛好家に名を連ねた。
その茶湯に使用される茶道具の中で,抹茶を入れる器を「茶入れ」といい、評判の名物茶入れを収める仕覆に使った布の裂地に主として「名物裂」という名称が付けられるようになったと言われている。

茶湯が茶道と称されるのは、江戸時代の初頭である。
茶道は朝廷とは深い関係を持たないまま、武家文化として芽生えてきた背景があり、茶道も能楽のような芸能の一つである。
「名物」というのは茶入れに限ったものではなく、茶道具の中で選び抜かれたものに、名物という呼称を付けたものが多くある。
それらに付随して、茶入れ・茶碗の仕覆、茶席の絵画・墨跡の掛物の表具裂などにも裂地が使われた。
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